敬老の日に思う・・・・

現代高齢者は「不幸の極み」にいるのか・・・自らが75歳の後期高齢者として、年金生活の中で、改めて身の周りを眺めている。何が足らないのか?・・・何故、足らないのか?・・・何故、その現実が生れたのか?・・・と。

少年時代に、二人の座敷牢の老人を見ている。傍にいた母は、「嫁を苛めた報いよ・・・」と呟いた・・・父は養子だった・・・祖母(母の母)は、父を褒め、母と祖母がいがみ合う・そんな家庭だったのだが・・・。「嫁を苛めるとは・・・」・・・それは、祖母の故郷に、祖母の遺骨を納めに立ちよった・・・昭和21年、真黒な芋の粉でつくった団子が主食だった私に、腹いっぱい食べさせてくれるであろう「白いご飯」が楽しみな、広島までの旅だった。しかし、あにはからんや・・・箱膳の一膳飯・・・でも、お嫁さん(母の姉)よりも良かった・・・何故なら、小母さんは、皆の箱膳を片付けてからしか、食事(残りもの)が出来なかったのである。家父長制の大家族・・・10余の後に訪れた時、当時の家長は世を去り、家族はばらばらになっていた・・・小母さんは、一人しょんぼり余命を繋いでいた・・・子供達の仕送りを頼りに・・・。

この時期、東北の農村歌人(女性)の短歌には、戦中・戦後の「農村の嫁」の苦悩が、五萬と残っていると言う。昭和40年代にNHKのTV電波に乗ったことがあるが、農村の嫁不足の中で、何時の間にか忘れられている。「農協」の旗が、世界の観光地に翻った時期・・・まだ、農村の嫁の立場は、まだ惨めだったと、私は記憶する。嫁不足の中で、若い農村婦人(嫁)の立場が強くなり、「花の栽培」等の副収入が、農村家庭の経済力に寄与するようになり、高齢の、姑の力は衰えた・・・・現在の高齢者の、若き日のvitalityであるのだろうと・・・時折、元気に「副収入」を稼ぐ高齢者の姿に思う・・・現在の高齢者は、決して「不幸」でも「惨め」でもないのだと・・・。

寧ろ、親の介護を、兄嫁や、弟の嫁に任せて、都会のアパートで、気楽に暮らした人々が高齢化し、今更、実家を頼りにも出来ず、さわ言っても、自力で現状を改善できるものでもないし、高度経済成長時代を楽しんだだけの、現在の高齢者夫婦、あるいは独居高齢者には、寂しい、孤独な、現状は、福祉がそれなりに整っていても、相当な覚悟が要請されていたのである。花が散った「枯れ枝」で生きる・・・考えるべき事を考えなかった、言わば「自業自得」としか言いようがない。政治が悪い!の、社会が冷たい!の・・・と愚痴るのは、お角違いだろう。
水戸黄門」を観ている間に歳を重ね、世間は様変わりしていた・・・現代版「浦島太郎」なのであろう。かく言う私も例外ではない。若い日の、壮年の日の、一日、一日が、現在であるが、当時からすると「未来」だったのである。「かく生きれば、かく成る・・・」。それが見えないだけだった・・・しかし、座敷牢を、何とか回避(全部ではないだろうが)出来る現在に存在することを喜ぶべきだろう。

高齢者の、個人的格差は大きい。財形に成功した人、失敗して借財を負った人。健康な人、難病に悩まされ続けた人・・・それでも、周りの人々に感謝できる幸せな高齢者もいるし、悲嘆に暮れ、恨み節の日々を過ごす人もいる。また、時に、カラオケを楽しみ、時に「旅」を楽しみ・・・それを積極的に楽しむ人、そして楽しめない人・・・孫に恵まれる人、孫に殺される人・・・列挙するには限りがない。
私自身は、妻の愚痴はあっても、41年間勤めた年金収入の範囲で生きるのが「最良」とする私の傍にいてくれる妻がいる・・・この先は、どちらかが、どちらかを失う悲劇は覚悟の上で・・・私は、晴耕雨読ならぬ、晴読雨読の日々である。そして、このブログを楽しんでいる。だから、私のブログには、基本的には「愚痴」はない。
現状を鑑みて、警告はあっても、絶望はない。過去への反省はあっても、その結果の現在は受け止めている(はずである)。
リタイア後も、色々と大きな病気もした・・・勿論、現役中も・・・しかし、高額医療への「諸手当(保障)」で、大きな生活の質の低下を招くこともなかった。癌も、再発も転移も逃れた(らしい)幸運に恵まれた・・・これも、妻の日頃の「食事・管理」の効果であったろうと、感謝は深い。酒も煙草もやらないから・・・手術の可能性を妨げるものがない故であると、主治医は語った。今は、循環器科、眼科、そして歯科・・・・真面目に受診して、大禍にならないように用心の生活である。
近くの都会(博多)へ出るのも、年に一度程度・・・相棒が足を痛めたので、数か月に一度の映画も、今は御無沙汰。旅行、カラオケとは、全くの無縁。勿論、ゴルフ・パチンコや公・博打との無縁。昔の仲間との愚痴の投げ合いになる「飲み会」も、10年以上も御無沙汰・・・最近は生死も不明・・・・ブログを実名にしたのも、私の「生存証明」の方法である。
これで、不足があるか・・・不服があるか・・・・「ない!」。

今朝も、高齢者の惨めさを“みのもんた”が嘆いていた・・・惨めな方もいるだろう・・・その方を助ける手段は、元気な方が、自身の「不満」を不満足らしめないない精神力であり、言動であり、矜持であり、ディシプリンである。曽野綾子が、私の最近の愛読書になっている所以でもあるだろう。