愛知・大水害・・・・

今度は「名古屋」か・・・何故か、ここ何年かは、九州を台風が避ける・・・それでも、結構強い雨は降るのだが、大洪水、がけ崩れ、あるいは、山間部集落への斜面の崩壊・・・等の事故は、少ないのではないか。我家でも、それに類する話題が出る時は、「何時だっけ・・・」と、記憶を辿らなければならない。特に、鹿児島の「シラス台地」に起因するものがないし、また、長崎の、地勢的な、瞬間の大洪水もない。
私は、少なくとも、都市構造が、東京や、名古屋の様な都市とは違うのだろう・・・京都に大洪水が少ないのも、同じ理由ではないのか・・・論理的な話ではない。其処に住む人間の「謙虚さ・・・」に類するものだと考えている。

川は“自然”のこのではない。至って人工的なインフラである。谷筋の、水辺に近い所に住めば、上流の山間部に大雨が降れば、その流れの増水で被害に遭遇するのは必至である。祖先も、それを覚悟で生きてきたのだと思う。千葉県の「房総の里(だったかな?)」・・・古墳群の近く・・・を散策した時に、半ば資料化した「民家」の軒先に「小舟」が吊り下げられているのが不思議だった。海からも遠い、近くに川があるわけでもない・・・その事を問うと、大洪水とは、遠く離れていても、「来るものは来る。襲うものは襲う・・・」との返事だった。歴史を紐解けば、理由は解るのだろうが・・・・お先祖の知恵を継承しているのだろうと、勝手に理解している。

水は、己の好きな場所を、高きから低きに流れる。その「幅」も、変幻自在である。途中の、流れを妨げるものは、その水量が増せば、あるいは、水路となる個所が狭隘になれば、水嵩を増す・・・地球の表面は、彼等の存在が占有可能なのである。

TVに、「愛知用水」の写真が出ていた。偶然か、あるいは故意にか・・・用水に水は流れていなかった。流せば、瞬時に溢れるので流さないのだろうか・・・そんな推察をした。そして、大河が氾濫している・・・100万人が避難とか・・・・。この街も、雨には弱い。過去の大災害も、殆どが「水」に起因するものではないか・・・歴史的にも、干拓に似た造成で、その禄高を増やしてきたのではないか。豊かな濃尾平野で満足出来ずに・・・・。

紀伊半島は、「植林」の限界を知らない、人間の愚行が、ここにきて、自然エネルギーの反逆を招いているのである。そして、その、自然エネルギーの懐深く潜りこんだが故に、今回の悲劇がある。しかし、人間の知恵が残っているので、東日本の「大津波」の様な災害になっていないだけである。

都会の「道路」は、周辺都市であろうと、都市の中心地であろうと、「道路」は、「川」と化するのが当然である。地下は、人間の欲望の生んだものだから、全面的に人間の工夫で、その災害を防がねばならない。その意味では、集中豪雨が予想される時、市内への「クルマ」の侵入にも制限が加えられるべきだろう・・・恐らく、彼方此方で、「凶器」に変じているのではないか・・・メディアが報じないだけなのだと、私は思う。
時に、非難する人々を傷つけ、時に火災発生の原因となり、被害者、弱者の救出を妨げるのも、路上放地のクルマであろうから・・・。

東京は、災害に対処する方法はない・・・都・市民は、「死を覚悟」で生きているのである・・・同情の余地もない。都会人の誇りを胸に、その死を受け入れるべきだろう。
しかし、「名古屋」・・・これは、市中心部の建築物を高層化し、空間を増やすことで、豪雨、洪水に対処出来るのではないか。道路の幅を、現在の3倍以上に拡幅する。遊水用の、巨大公園を要所に作り、もし、高台に出来るなら、排水は、発電に使うことも可能だろう。
そもそも、現在都市空間になっている「低地」は、農業用に、古人が開発・拡げたものである。其処に作られた商業地域、工業地域・・・・近代化の過程で必要とされたコストを負担することなく現代に至り、温暖化の中で被害を生じているのである。
土地をかさ上げするか。水の通路を十分に確保するか・・・・延々と続けてきた、古人の努力を、もう一度、新しい地球感で、再出発させるべきだろう・・・沿岸に発展した「大都市」に共通の問題であるとの認識も、再確認しておいた方が良い。
地価の高い「低地」に住むか、まだ地価の安い「高地」に住むか・・・この選択が可能なのも、ここ数十年の間ではないか・・・都市改造・・・・ナポレオン三世の出現が待たれる・・・。