曽野綾子を読む・・・3

第3回
その8;;;;
人間の社会に「想定外」を認めないのは、自分を神に擬した思い上がりだと思う。

「想定外はない・・・」とは、perfect(例えば安全)な結末が、全てに解っている・・・と、言うこと・・・曽野綾子は、このフレーズで、それを言っているのであろう・・・それは「神」であると。反語的には、森羅万象、全てが人間には「想定外」なのであると。己の事ですら、何時かは死ぬと理解していても、明日の死は想定外だろう。「想定外」を認められずして、人は生きてはいけないのではないか。しかし、事故の全てを「想定外」と言ってしまえば、「思考停止」になりかねない。この隘路を避けるべく己を持する矜持を持つか、否か・・・それは人格というものだろう。
漫然と生きる人間、つまり酔生夢死には・・・全てが「想定外」、己の死すらが想定外である。
一生懸命に生きている人には、己を謙虚にして「神」に委ねざるを得ない事が「想定外」・・・この二つの想定外の違いは大きい。
今回の「原発」事故でも、原発は、地震を受けて、きちんと停止したのである。そして、冷却水も、そのsystemが破損しなければ、原子炉を冷却していた・・・はずである。その冷却水が通水されなかたのは、電源のdownであった。この事が予見できて、論理的に説明できて、その危うさを、その組織を通じて、何らかの方法で、公表し、人々に予見的意見として表明した人をもってして、始めて「想定外」と言うフレーズが使えるのではないか。
東電を責めるのは簡単である。しかし、原発のお陰を受けていた現実は、どの様に理解するのか。しかも、原発が出来てから移住して来た人に、東電を、悪しざまに非難することが理に叶うのか・・・少なくとも、その人にしてからが、「想定外」だったのではないか・・・。己の、科学的リテラシーの不足を全部棚に上げて、関係者の科学的リテラシーの不足を論うのは、少々卑しい行為かもしれない。
昭和20年8月15日の、「天皇詔勅」も、大凡の日本人にとっては「想定外」だった。そして、その後に訪れる「世間の様子」も「想定外」だった。そして、7,8千万人の日本人が認めるものでもあった。
***空襲で焼野が原となった都市は、日本全土で90に及ぶ。消失戸数;35万戸以上、罹災者数;800万人以上・・・その廃墟が、少しずつ息を吹き返し瓦礫は片付けられ、秋風が吹き始める頃には、日本人の勤勉さそのままに、瓦礫と焼野が原には、掘立小屋が立ち並ぶようになっていた・・・勿論、さびたトタンだけの、格好だけの家もあった。しかし、もとの道路に沿って、もとの街並みが復活しつつあった。銀座には、10月頃には、便座通りに灯が点り、料亭やバーがオープンしていた・・・半藤一利の著にある。
閑話休題・・・14日、BSフジ・プライムニュースに登場の「理化学研究所・先任研究員・岸田一隆博士の弁。
彼の曰く・・・「想定外」の危険は、「思考停止」である・・・と。別名では、「基準値主義の危険」でもある。科学的マナーとは、「何故?」と問うことを止めてはあり得ない。危険にしろ、安全にしろ・・・そこには明確な論理がなければならない・・・人間に許されているのは「思考・考えること」であり、そこには、科学的教養・リテラシーが要求されているのである・・・云々。

その9;;;;
放射能を避けるために、移住を迫られた避難指定区域のひと達には気の毒だが、私は、こういわなければならないと思う・・・「何時帰れますか・・・等と聞かないことだ」と。誰も、確信を持って「こうなります・・・」と、答えられないのだから・・・一度も歴史になかったことは、誰にも答えられない・・・・・

危険なら逃げる・・・一時的な避難か、半永久的な避難か・・・それは、「運命」に類するものなのではないか。彼女は、逃げないだろう(避難しないことが許されるなら・・・)と、別の所に述べているのだが、「80歳の老婆が、じたばた慌ててどうするのだ・・・」と言う諦念でもあるだろう。
私も、玄海原発が同様の事故を惹起したら・・・もう逃げる必要もないのかな・・・とも、思う。何処に逃げるのか・・・と、言う問題もあるが・・・。そして、その時は、もう帰れない・・・と、覚悟を決めるべきだろうとも思う。
昭和21年の5月・新月に、興南の港を密かに漕ぎだす小舟が、港の外に出た時・・・「必ず戻ってくるぞ・・・!」と叫んだ、父の友人の声が、まだ耳朶に残るが、「敗戦」と言うことの意味が、俺達も分かっていなかったのだろうな・・・父の述懐だった。「敗戦」とは、日本人が、日本人の全てが未経験だったのである。
敗戦で、天皇の事は心配しても、己のことを政府に「何とかしろ・・・」と言った日本人はいなかったのではないか・・・近代・
注文津のLSTの船上から、腹巻の中の「紙幣」や「債権」を海にぶちまけた男・・・やっと、この場所で、「敗戦」を自分に納得させたのだろう・・・。朝鮮半島の「日本」が消滅したと言う厳然たる事実である。「何時帰れるか・・・」と問うことの愚かさから我が身を脱した瞬間だったのだろう。
戦後は、しがらみをすっぱりと捨てて、元気に生きたのではないだろうか・・・。
その10;;;;
私の様な高齢者は、健康被害など承知の上で懐かしのわが家に残ることを許されるべきだと考える。その上で、残留高齢者は、政府に、生命、健康、財産上の補償を要求しないこと・・・自分で選んだ人生なのだから・・・。

私も同感・・・連れ合いの気持ちは複雑だろう・・・曽野綾子氏も、三浦朱門の考えは確認できているのだろうか・・・お互い文学者だから、納得できる日々を送っているのだろうか・・・そうだろうなと、羨ましい。
生活インフラが語られていないので、其の点は無視して考えざるを得ないが・・・こう覚悟すれば、少なくとも、仮設住宅の抽選に当りながら、避難所暮らしが楽だからと、仮設住宅を空家のままに・・・権利を保留しながら・・・しておく心境にはならないのではないだろうか。
自らの、仮設住宅の抽選に参加したのなら、一先ずは、入居すべきであろう。況や、その権利だけを保留するのは、卑しい。その上で、生活インフラの整備に、自らも参加して努力すべきではないのか。そのニュースを聞いた時、「なんちゅう・・・ことや!」と、怒りがわき上がったことを記憶する。
ニュースの映像でも、確かに不便な場所ではある。しかし、全戸に入居が完了した時点で、次の策を考えるのが、社会人と言うものではないのだろうか・・・・先日、最後の避難所が閉鎖される映像の中で、「明日からは、自分で食事の準備をしなければならない・・・大変な事だ・・・」と、自嘲的に語っていたが、年ごろからして、戦後を体験しているはずと見た・・・しかし、空襲も知らず、食料難も、買出しも、掘立小屋も知らない、幸せな「敗戦」だったのだろうと、私は想像した。
戦後も、その苦難が平等に訪れたのではない。敗戦があったから・・・食糧難があったから・・・娘に、立派な晴着を着せることができた・・・と、自慢げに語る人もいたし、偉そうな都会の奴を、庭に土下座させた時は爽快だったと、赤ら顔に自慢する人もいた・・・片や、食料欲しさに娘をの豪農に嫁がせ、姑の苛めの中で早死にさせたと・・・一杯の酒に悔む人もいた・・・私の世代は、聞こえる耳をもっていれば、色々な人生の呻吟し、苦吟する声を聞く事が出来たのである。曽野綾子半藤一利も、ほぼ少年期の後半に、その景色を目にしているのである。
しかし、船舶用の大型コンテナーで、三階建ての仮設住宅を建設した建設業者は、「次はマーケットだ!」と意気軒高だった・・・そんな人が存在すれば・・・まだまだ夢はある。
<今回はここまで・・・>