唐突発言の隘路とは・・・・

今朝(16日)の「時事放談」・・・野中/増田・コンビ・・・曰く、野田内閣は「唐突内閣」。拉致事件に関して、何の裏付けもなく・・・「必要なら何時でも私が出掛けます・・・」と、そして、「年金受給;68歳〜70歳」。
両氏は言う。官僚を敵視して発足した政権だから、政権の「隙間」を見ては、弾を撃ち込んでくるのだ・・・と。

つまり、日常的な対話が出来ていないということなのだろう。
私ごとになるが、出席した会議、ミーティングで、唐突に発言して嫌われる「私」だった。意見具申をしても全く相手にされない・・・しかし、「アイディア」を出せとは、上司が誰であっても、口癖・・囀りの様に聞かされる。そして、具申をしても却下・・・同僚達は、「お前の具申はなぁ・・・」と、評判が悪かったから、内容も悪かったとは自任している。が、である。部下の意見とは、その内容を判断するものであって、その詳細の一部始終が完璧に構成されているものでもないだろう・・・・と、私の腹の中の反論だった。

野田総理が、このメンバーの閣僚を抱えて、なんとか人気浮上を試みようとすれば、閣僚をすら吃驚させる様な、そして、国民受けする様な「発言」を強いられるのも、むべなるかな・・・理解出来ないものでもない。しかし、あってはならないのだろう。
小泉純一郎の発言が唐突の様に見えて、その発言をする母体のイメージに整合した発言だから、唐突な発言には聞こえない・・・むしろ、「あの人らしい・・・」との評価が得られたのである。北朝鮮訪問だって、「あおの人らしい・・・」と、その成果を抜きにして国民のシンパシーを得たのだと、私は思う。つまり、誰にでも出来ることではないのである。

その反面教師が、松本龍・・・彼にしてみれば、パフォーマンスでも何でもない、極普通の言動だった。彼は、親しみを込めて喋ったのである。しかし、北部九州の荒くれを相手にして通じるジョークでも、東北の純朴な、お上大事の県民に受ける筈もない・・・軽率を通り越した、馬鹿な行動だったのである。西郷隆盛が、長岡の人々に、現代ですら嫌われる、長州が会津を嫌う・・・人間の恨みとは、エトスでもあり、「心琴」とは、良い音色だけを奏でるものではないのである。
この、松本龍の発言も、北九州の流民・・・博多、久留米を除き、北部九州のひと達は、大半が「流民」である・・・性を、東北の、将門の如き、藤原氏の如き、土着の人々の前で披歴した浅はかさにある。事情が分からないままに現象だけを言えば、津波が遺した瓦礫に誰も近づこうともしない・・・九州人の私には多少奇異に見えるものがあった。瓦礫の木材で「掘立小屋」が建てられないのかな・・・俄か造りのテントでも造れば、暖を取る燃料は沢山あるのに・・・とも。曽野綾子も、同じ様なことを書いていた・・・ニュアンスを私が取りちがえていなければ・・・。

自民党の面々は、土着に近く、地産地消の政治家が多いから、他国で喋る時は、非常に慎重になるのがふつうである。しかし、他国の美人に弱いから、この面での失敗は多い。
今、暴力団追放でかまびすしいが・・・私は不可能と見ている・・・喧嘩をさけて、何事も前に進まない。良きにつけ、悪しきにつけ・・・衝突・喧嘩から、物事は進捗する。カントでさえ、競い合う必要性を説いているではないか・・・世界が一つに統一されたら、人類は終りだと・・・・。

政治とは、国家に必要な手法である。社会は、お互いが信じ合い、騙し合うことで、その綾が時に美しい模様を作るものである。しかし、政治の手法は、それが何であれ、血を流し、争いを生み、勝者と敗者を生み、不満を残し、更に、満足するものはいない。せいぜい次のチャンスに活路を見出す知恵ものが生れれば、それで由とするものである。
政治の悲劇とは、「首」をすげ代える時の欲望・不満の程度と、人傘連中の処遇、処理、時に排除・抹殺の術が生みだすものである。韓流・時代劇の面白さは、それを遺憾なく描き出しているからである。無知な大衆受けの言説でのし上がる政治家の命は短く、末路は哀れである。そして、成功者と言えども、満足は得られない・・・後継者への不安・不満の内に、己の命が果てれば、それは幸せである。

野田総理の、目の前の人々の耳に心地よい台詞は、韓流時代劇ドラマの中に、日劇的最期を迎える武将、あるいは「王」の姿に似たものがある。唐突とは、命を削るものであること・・・松下政経塾では教えられなかったのだろうか。