反自動的・抵抗ゲリラ・・・・

昨日の早朝の「時事放談」・・・民主党の黄門様こと、渡辺恒三氏の嘆息にあったもの・・・かつての炭労闘争の時代には「オルグ」と呼ばれていたものに近いのかとも思うが、こちらの方は、多少組織的であり、彼 なりの良識があって、彼等の目的とするものとの整合はあったのだと思う。「オルグ」として存在する程の力がなかったので、経験はないのだが・・・・
最近は、経済衰退の商店街のシャッター通り・・・これは、池上章が、その講義の中で指摘していた。シャッターが下りた商店街は寂しいものだが、その店の主は、概ね、東京の高級マンションに悠々と暮らしているのだ・・・と、つまり、悲鳴を上げているのは、その借地人であり借家人であり、所有者が困窮しているわけでもない・・・と、言うことなのだろう。

ロンドン市内には、女王様の土地や建物が、結構な数あるのだと、この地をパック旅行したときに、ガイドが説明していた。つまり、「債権者」として、その「利」を、女王様は手にしていて、自ら商売や経営に携わっている分けではない。ロイドの保険の仕組みもそうなっていえるのだと、その時の講話に聞いたと思う。つまり、女王さまも、ロイドの保険の債権者(正しい使い方か?)も、自ら、自らの頭脳を使っているのではない。他人の汗で稼いだものの一部を配当として受け取っているだけなのだと・・・。何があっても、常に「冷静」が維持出来るsystemではあると、私は思う。

沖縄の基地問題も、基地を本土並みと言うなら、その闘争も、沖縄県民の闘争で在るべきだと主張する論者もいる。普天間基地の近くの小学校を移転する話がまとまった時に、猛烈な反対運動で、移転案を潰したのは誰か・・・軍用機が重量級になったから危険なのか、そもそも基地だから危険なのか・・・その議論さえ出来ない。この基地が出来た時、数件の家しかなかった・・・基地撤去の時に行われる、移転補償、生活保障は、どの様に配分されるのか・・・恐らく、地主の大方が、此処には住んでいないのではないか・・・「危険だったら・・・・逃げ出す!」のが、人間の本能であろう。それが、危険が増しても、人々が移転しない、いや、増加している現実は、どの様に理解すべきなのか・・・・普天間固定化の動きの中で、移転先の代替地を求める動きもない。

そんなことを考えながら、黄門さまの話を聞くと分かりやすい・・・・つまり、被災地の瓦礫が求められる、あるいは、その気配が見えると、同じ顔が、其処には現れる・・・その人の周りに、地域のシンパが集まる・・・・神奈川県の黒岩知事に怒号を浴びせていた「声」もそんな声だったのだろうか。プライムニュースに出演した知事の表情には、それを非難できない苦汁が溢れていた。
小泉流に言えば、「抵抗勢力」なのである。その「抵抗勢力」が、mediaの格好の、売上増の「種」になる。今、mediaの正義は「論」にはない。何が何でも「売上」が伸びればいいのである。特に、的購読者を、甘いnewsで取り込めば、経営は安定する・・・国家は危うくなっても・・・。

その結果、社会の各所に「秘密主義」が蔓延する。何かを計る時、何かを議論する時、如何にmediaの目につかない様に運ぶか、聞こえないようにするか・・・先の、原発関係の会議体が、議事録を作っていない・・・いたってmass communication対策、media戦略なのである。しかも、事の正邪、成否を論じるのではなく、「売上」がその目的だから、結果的に、全media同列になる・・・これが、「国民の全てが、大半が・・・・反対している[時には求めている]・・・」の論調になる。これを「マッチポンプ」と言うのではないのか・・・今、mediaは死んでいるのである。

結局、何処の都道府県であれ、「瓦礫・・・」のKWが剥がれると、同じ顔ぶれが現場にはある・・・とは、黄門さまの観察である。それは、「瓦礫」反対が、それ程のものではないことを見せてもいるのだが、それに、地域の不満分子が同調する・・・「ゴミを持ち込むな・・・」は、被災地への同情がなければ、それはそれで正しい・・・・今は、苦痛を分け合おうとしていることを忘れた議論が繰り返されているのである。

東京都は、自前・・・都政の・・・土地だから、容易に受け入れて処理をした。恵まれた条件ではあったが、石原都知事の英断でもあったろう・・・余談だが、各都道府県も、その政策の中に、他都道府県の災害の普及、負担軽減に、如何なる方法で貢献するかを、あらかじめ考えておく・・・政策に生かしておく・・・か、政策としてする時代にきているのではないか。

自民党政権下だったら・・・と、思わざるを得ないが、黄門さまは、そのリスク管理自民党は得意だと言う。つまり、地域の説得に自信をもっていると言うことだろう。つまれ、「抵抗勢力ゲリラ」の侵入を許さない、活動を許さない基盤を持っていると言うことだろう。神奈川県の沿岸も、津波の災害の恐れなしとはしない・・・その時、オルグ的ゲリラは、登場しないのだろう・・・どこかで、卑怯にも陰を潜めて・・・他人の苦労を眺めているだけなのだろう。

「鎮魂の瓦礫処理・・・・」。放射能の安全基準・・・それなりの基準値に即して生きる運命に私達はあるのだろうと・・・私は覚悟する。ビキニ環礁とその近くで、あれだけの原水爆実験が行われたのである。中国大陸で繰り返された原爆実験・・・あるいは、シベリアで・・・安穏と暮らしている私達も、当局の云う、いわば「安全神話」を信じて生きているのである。これも、人間が作った生活環境なのである。己が隣人の為に何処まで我慢出来るか、あるいは、あるかも知れない危険を何処まで甘受するか・・・・それも「愛」の一つだろう。

一つの「悪徳」があるとしたら・・・己の、主義主張の欲望の為に、全人類をして、相闘う存在にしかねない主張で、嘲弄するこであろうかと、私は考える。「正義とは、献身であり、時に鎮魂であり、危険を我が身にも受ける勇気であろうかと、私は思う。