政治を語るおぞましさ・・・党議拘束のおぞましさ・・・

恐らく、各政党の無様(ぶざま)さの元凶は党議拘束である。政治は、妥協の産物である。故に、一つの政策が生れるまで、成るまでに、何が議論され、誰が、何を語り、何が、議論の中で葬りさられ、何が、法として誕生したのか・・・それを、統治される我々(国民・市民)が知らずして、我々自身が、法治国家に生きていると言えるのか・・・「政治は数である」と、まことしやかに語られることの虚しさである。未熟な法治国家なら暫定的な姿として、systemとして必要なstageかもしれない。議論にならない議論に時間を費やすよりも、党内の賢人達の意見に沿って「党」の決定を得、そして、それを「数」として政策を遂行する・・・事も・・・。
国民・皆・高等教育・・・が浸透したわが国で、政治家だけが、未成熟な議会制度・民主主義のstageにある国々と同じでなければならないのか。「一致団結」・・・もう耳の中に出来た「蛸」が、腫瘍の段階にある。先のオリムピックに、私の「力」で勝ち取りました・・・と、メダルを翳す選手は一人もいなかった。個人種目であれ、団体競技であれ、「力」は、個人のものである。その「力」を、勝つために如何に自分で発揮するのか・・・隣の同僚に調和する様では、勝利もないだろう・・・隣の不足を己が補う程の力量が個人にあるとは考え難い・・・メダルも、上位入賞も、一致団結で得たものではない・・・選手自身が最も判っているのではないか・・・。一人くらい、「本音」を語る位のathleteがいて欲しかった。
況や「政治」である。党議拘束で、議員の手足を縛って・・・それが民主主義とはおこがましい。勿論、「党是」は必要だろう・・・政党としての理念も必要だろう。しかし、個々の議員の個々の選挙区が、それで統一される筈がないのが、民主主義というものではないか。あるいは、年齢、社会的地位、生活の条件によっても異なるだろう。そして、議員の前の人間・・・一票・・・は生きている人間であり、日々を生きているのである。4年前の支援者の一票で議員になっても、4年後の選挙の訴えをする時、4年前と同じでいいのか・・・そうではないだろう。支援者の為の政策を、支援者と約束できないとしたら、支援者の顔を見ないで、政党の政策を抽象的に約束して「票」を頂くしかない。結局、manifestに調子の良い項目を並べて・・・それが実行不可能でも、「党議拘束」で、法案を通過させる。党議拘束に準じた代議士は、支援者に「嘘」を云ったことになるのだが、議員全員が「嘘」を言えば、嘘も嘘にならない。せいぜい「方便」で済まされる。
選挙民の賢さが確信できない政党の弱さ・・・なのだろうか。我々の馬鹿さ加減なのか・・・?