復讐するは我にあり・・・・・子供達よ・・・死んではならぬ!

復讐するは我にあり何故死ぬのか・・・生徒手帳には「虐め」がほのめかされているとか・・・先の大津の時は、自殺した子供を良く知る同級生の母親がお悔みの電話をした直後に、我が子が「虐めた側の子供の仲間らしい事が報じられショックを受けている様子が、報じられている。
また、幼い女子児童を拉致して自宅に軟禁して、それを咎めたらしい父親を撲殺した青年、また、女児を袋に詰めてタクシートランクに押し込んで運ばせようとした青年・・・どちらも、近所の方々の評判がすこぶる良い・・・
この両者に共通点を探ろうとするのは、「愚か」だろうか・・・私は、歪んだ学校教育、そこに存在する歪んだ教師像を思う。つまり、自殺の案件に含まれる「加害者」の少年達、その成長の暁が、後者の青年として私には重なるからである。
つまり、虐め、虐待に対峙して成長しなければならない生涯、あるいは一時期(先が見え難いにしても・・・)をどの様に凌ぐか・・・「復讐を誓う以外にはないだろう・・・」。そして、それが、虐めた奴への「恩返し」でもあるだろう。その他に、何があるか・・・右の頬っぺたを打たれたら、左の頬っぺたを差し出せ・・・・それは方便にしか過ぎないものである。当面は、左も打たせて相手を安心させ、次は、「命」を狙う・・・それくらいの気概は持つべきであり、虐められて「死」を選ぶのなら、寧ろ、虐めた奴への復讐を果たして「犯罪者」としての生涯を選択すべきではないのか・・・。
一時期、虐められて、後に仲良しになった、中学生の友人が言っていた・・・「上目使いのお前の目は怖かった・・・・」と。しかし、その悪童の肩を持ち続けた、社会科の教師は、私に向って次の様に宣うたものである・・・少しばかり成績が良いからといって、他の生徒を差別の目でみるな・・・と。どうにも理解が出来なかったのだが、今なら理解出来る・・・悪事を、その教師に発見された時は、そいつは無罪放免で、私が、校長室に半日立たされることが多かった・・・日頃は優しい他の教師も異論を挟まなかったから、その教師の処置にも「理」が在ったのだろうと、今は懐かしい。
何時の日かの「復讐」・・・これはenergyになる。中年を過ぎる頃から、我が身の保全を図る先輩には、結構、その保身に利用できない「私」の様な、半ば部下を「いびる」人もいた。何時か復讐してやる・・・と、思いつつ定年したが、数年後に「死んだ」と聞かされた、その晩の一杯は美味だった・・・「俺は勝った・・・」と。人生、その程度のものだ。復讐とこそが、人生の本質・・・

子供達よ、死んではならぬ!