グループホームが何故燃える・・・高齢者施設の火事!

家庭的な雰囲気が喜ばれる「グループホーム」・・・それが何故火事になり犠牲者が出るのか・・・環境としては、家庭的であるべきなのに・・・グループホームが誕生し始めたころ(定年退職したころ)に、市内のグループホームを見学させていただいたことがある。同時に、見学した、高齢者施設に比べて、小奇麗で、管理される方と、入居者の関係も家族的で・・・「いいものだな・・・」と感じたものだった。当時は、あるいは高値の華の存在だったのかも知れない。その後、空き家をグループホームに・・・と、団地内の空き家が、グループホームになる姿も見られるようになった。

長崎の悲劇・・・幾つかの点で、ホームの経営に安易な安心があるのではないか・・・基本的に、グループホームは家庭的な雰囲気を大事にする施設だと思うから、例えば、大病院の様に施設が完備することは要求されないのだと思うが、それだけに、「疑似家族」という名分の裏に、小さな油断が生まれやすいのではないだろうか・・・もう直ぐお世話になるかもしれない、私自身のこととして考える。

火事の発生が、17時頃だったということ。一般の過程で、こんな時間に火事が発生するのだろうか・・・最も、調理場の様な場所なら、無くもない。しかし、其処には、人が存在するのだし、消化も、脱出も、入居者への警告も可能な筈・・・あれほど煙が充満するまで、批難の処置が取れなかったのか。私の感想は、家庭的な環境・雰囲気と言うは「文言」だけで、単なる収容所としか存在していなかったのではないか・・・。

火元が、老朽化した、問題を孕む「加湿器」であったと言う事。先日は、欠陥・瞬間湯沸かし器で、若い学生が死亡する事件が新しい。文明と云うものは、幾つかの欠陥を持って世の中に出て来る・・・事故を教訓として改良されるのが、「文明」の形態の一つである。
欠陥を指摘された、あるいは事故を惹起した装置が、リコールされて、より安全にすべく処置が取られる。しかし、人命が人命として認識されなければ、情報に疎ければ、その恩恵に浴さないままに、事故に遭遇する・・・文明の宿命でもあるし、個人の情報・教養が要求される所以である。工場では、年に何回も管理監督庁の査察を経験する。面倒なものだが、その査察の監視を逃れる工夫は、事故・災害を惹起する工夫に似たものがあり、人事異動で交代した、次の担当者を窮地に陥れるものでもある。あたら、優秀な人材を失う契機にもなり、企業にとっては、何重もの損失となる。
私は、消防当局の責務が果たされていたのだろうか・・・あるいは、それを法が阻み、経営者が、安全と言うことでは「不安全」を誘う、その施策を利用して自らの負担を軽減したのか・・・不安全な加湿器の使用を存続させた・・・法の適用のサボタージュではないか。メディアでは、消防の指摘を無視した経営者の責任を問うがに見えるが、私は、法は厳格に施行されるべきだと思うし、そのシステムへの関心を失ってはならないものだと思う。

更に言えば、グループホームの申請を許可する条件の整備であろう。小規模であれば、設置が義務付けられない・・・何故、義務がないのか・・・その意味を正確に理解させて、義務がないことが、不安全な施設を生む弊害を押しとどめるべく、認可の慎重さが求められるべきであろう。
お金が掛かるから・・・施設の安全が犯される、命が失われる・・・寧ろ、最低限の施設への条件・・・今回の例でいえば、「スプリンクラー」の設置は、将来の法改正、施設の拡充にも対応可能なインフラとして政策的に装置されるべきだろう。

高齢者の場所は、年々縮まっている。特に、元気な女性の社会的進出が望まれる現代・・・高齢者の世話を、息子の嫁の義務と考える風潮は、一日も早く払拭すべきであろう。ならば、身体が不自由になった高齢者の生活空間の確保は、行政の責務であり、高齢者の不自由は、可能な限り除去されなければならない。それがまた、女性の働く場所の拡張、社会的活動の場所を広げるのである。スプリンクラーの水源の問題も、その意味では、行政の持つべきインフラではないか・・・と、私は理解する。>