飲酒運転王国・福岡県

「飲酒運転」・・・福岡県が全国一だとか・・・博多を除けば、流刑地の様な土地柄だから分からないでもない。特に北九州は、この地に人が沢山住む様になったのは、官営・八幡製鉄所が建設されてからである。現在でも、5代を数えてここに住み着いた家系は少ないのではないだろうか。また、筑豊にしても、大牟田地域にしても、炭鉱に人々が集まって出来た街である。私の家系も、私の祖父の時代に筑豊の炭坑に広島を引き払って・・・いや、逃げ出して・・・住みついた家系である。

私は、9歳までを植民地に過ごし、戦後に筑豊に引き揚げて来て、其処で成長したのだが、腰のベルトに出刃庖丁を差した酒臭い叔父さんが、街を闊歩していた。酒飲みだった祖父を知る人も多く、「お前は爺さんににている・・・」などと、会ったことのない祖父の粗暴な日々のことを教えてくれたりしたものだった。私の父にしても、17歳まで過ごした地だが、隣町に私が遊びに行くと報告すると、「棍棒を持って行け・・・」と、助言をくれたものである。隣の小学校同志の喧嘩もよくあった・・・。

傾斜生産に街はにぎわっても、炭鉱夫の生活は貧しかった。買物は、「配給所」と云われる会社の売店で、現金なしの給料天引きで帰るので、常に借金を背負っての毎日だった・・・そうでない感心な人は、長くは努めない・・・・。借金がたまると、他の炭坑に夜逃げ同様に移動する。だから、小学校は、学期が変わる度に、クラスの三分の一が、学年が変わると半分が入れ替わっていた。父の小学校時代も同様だったと、語っていた。苛めっ子が、長くても一年しか在学しないのだから、引き揚げ者の子供にはありがたかった。

何しろ、生活に責任がない。現北九州・・・当時は五市・・・の、鉄鋼及びその配下の企業に働く労働者も似た様なものであったが、社宅は炭鉱とは格段に違い、教育環境も整っていて、永く勤務する様に指導されていたので、人品的には、大きな差があった。

が、社会的規範への遵守と云う事では、古い街、都市の人々とは大きな格差があったのだと思う。少なくとも、都市の住民と言えるのは、近郷の田園地帯の百姓と、博多の商人とその配下だけである。彼らは、今日でも誇りの高さを感じさせてくれる。しかし、経済成長の拡大で、流れ込んできた住民及びその子孫は、まだまだ「地」に染まない・・・・その為に、気性の荒い労働者の域を脱しない市民が多い。

伝統のない街は、そこに住む人々に寂しさを醸し出す。男達は「酒」に溺れ、その様な男たちを狙って「飲み屋商売」が繁盛する。「赤線」があった頃は、全国的にも、「赤線」商売の密度は高ったはずである。

炭鉱マン(坑内夫)、坑外の炭鉱労働者も、石炭・ボタトロッコの操作などの危険な仕事が多い。古くは、遠賀川を下り、上りする石炭船(五平太舟)の船頭・・・・「川筋」とは、この喧嘩早い船頭達に付けられた呼び名である・・・・殆ど、アウトローである。交通ルール等をきちんと守る資質に欠けるのが、かつてを知る私には当然としか映らない。

飲酒運転の悲惨な事故が多い・・・のではなくて、報道される様になったのである。この対策は・・・厳罰しかないだろう。勿論、予防的な規制も必要である。
例えば、「飲み屋商売」の店には、「駐車場」を造らせない。商売に不便であっても、客の目につかない場所に、こっそりと商売用の駐車場を設ける工夫も必要であろう。
また、ひき逃げ、飲酒は、その「料」に無関係に「禁固刑・・・執行猶予なしの・・・」とする。店、同乗者の処罰は言うまでもない。加えて、修理の有無に関わらず、クルマは全て没収・・・屑化とすべきである。

身の毛もよだつ厳しい処罰・・・福岡県、特にかつての炭鉱地帯、新産業拡大地帯には、警察官の監視を強化する等の処置も必要だろう。