国の掃除と、リンチを考える・・・

ムバラク退陣・・・デモの広場を掃除する人々・・・リンチのニュースがないのだが、全くないとはいえないだろう。

ムバラク辞任の声明で一先ずの騒乱が収まった街に、通りを掃除するエジプト市民の姿があった・・・報道写真・・・「そうか、恨みを何時までも抱えていても、明日はないというデモンストレーションなのか・・・」と、私は、リンチに奔る気持ちを抑え、リンチの拡大を防ぐことになるのだろうな・・・と、そんな事を考えた。

9歳の私が目にしたリンチ(北朝鮮興南)は、他のブログにも書いたことがある。人間・・・何かを負わなければ生きていけないのだが、その「荷」は「偶然」に負わされたものであると言うのが正確だろう。植民地の人々を労働力として、祖国の戦争に加担する。しかし、雇われた現地の人々にとっては、自らに大きな負荷を負わせている「力」に協力することである。勿論、目の前の「利」に目くらましをされる人もいるだろう・・・しかし、その人の心の中でさえ、「命令されたことを行っている・・・・」だけなのである。

私が目にしたのは、父の友人でもあったし、職場で、朝鮮人達に柔道や剣道を指南している方だった・・・当時は、朝鮮人青年を、良き日本人に育てる使命に燃えての日常だったのである。父は、終戦間もなく、朝鮮人支配になった会社から、嘱託として雇われたくらいだから、リンチの心配はなかった・・・

「差別」は、双方の立場の違いに理解と赦しがあれば、感情を爆発させることは稀である。しかし、「苛め」は、相手を、その根底から傷つける、あるいは永久に消えない傷(トラウマ)を残す・・・例え「差別」が解消されても・・・・リンチは、ここに生れる。
職業柄、仕事柄、避け得ない「差別」はある。しかし、「苛め」を避け得ない「差別」はない・・・とは父との対話を記憶に手繰っている。

デモを鎮圧した警察官が、「警察は市民の味方・・・」と書いたプラカードを掲げて行進する光景は微笑ましくもあるが・・・・偽らざる心情だろう。デモの騒乱で乱れた街を清掃する人々・・・市民は、街を掃除しながら、己の心を癒しているのだろう・・・私の感想である。これらの人々に「リンチ」は無縁のものだろう。しかし、ムバラク政権下で、理不尽に父を失い、兄を殺され、母や妹等の女性が凌辱された人々のリンチを非難するのは容易ではない。況や、砂漠の民の法典は厳しい・・・。

しかし、この30年間に倍増した若年層の人口・・・彼等は、それなりに教育のチャンスを得た様子が伺える・・・かつての「砂漠の民」と同列には考えられないだろう。故に、騒乱で乱れた街頭の清掃をする人々の姿があるのである。美術館は襲われたが、デモの群衆であるより、この機に乗じた「窃盗常習犯」の仕業だろう。
路上のクルマ等は相当に痛められた様だが、商店街などの被害は、TVの報道写真の主役にはなっていない・・・・デモの進化というべきだろうか・・・・。

如何なる有能な政治家でも、30年間も君臨すれば、それは、政治的・癌である。国家を滅ぼす癌を如何に切除するか・・・・それは、国民・民族の過去に関わる問題であり、今日の関わり方が明日の過去になる・・・つまり、過去を醸成している今日の問題なのである。ムバラク退陣・・・つまり、一先ず癌の切除には成功したというべきであろう。しかし、癌細胞は、国家システムの彼方此方のリンパに生き残っていて、捲土重来・チャンスを待っているのである。リンチが、その癌細胞を効果的に潰すことに貢献できれば万々歳だが、容易にはそうはならない。寧ろ、癌細胞を変身させ、増殖させる危険さえを孕むものである。国体を極力痛めない様に、体力を落とさない様に、リンパに潜む癌細胞を撲滅し、欠陥の中の癌細胞を消滅させねばならない・・・国家の掃除とは、大変なことなのである。

我々も、他人事ではない。政治家を責め、企業化をあからさまに非難し、罵倒し、貧しさが勲章であるかの如くに「貧しさ」を誇ることに、多少なりとも躊躇しなければ、自身の中に、リンチされるべき己を発見することになる。国家を掃除している様で、案に相違して、自らを滅ぼす行為に励むことになりかねない。

30年間変わらなかった政権・・・国民の怠慢でもあるだろう。「掃除」の姿の中に、その反省が幾ばくでもあれば、エジプトに新しい時代が生れ、政治が生れると期待できるのではないか。
私達は、数年ごとに行われる「国家の掃除・・・選挙」に、熱心さを忘れていないだろうか・・・自ら掃除してこそ、汚れも見える。そして、投票行動に生かされる。カイロの街を掃除する市民達の姿、決して他人事ではない。むしろ、「他山の石」とすべきものだと、私は思う。