平和に生きる人・・・2態


リビアには「幸せな二種類の人が住んでいる」・・・・一人はカダフィ大佐。組織の頂上にあって、全てを隷属させ、服従させ、自分の思うがままに国家を動かし、国民の殺傷与奪の権力を持っている。

もう一人・・・これは大衆なのだが・・・権力者に完全に服従し、何も考えないから、全く不満がない。生かされるままに生き、殺されるままに殺される。己の未来を描くこともなければ、過ぎた日々を懐かしむこともない・・・何故なら、己の意志で生きた過去ではないのだから・・・。全く生産性のない、「生から死への時間」が其処に存在するだけだが、その事すら考えることはない。「酔生夢死」の「生から死の」時間である。

リビアとは、そんな幸せな国だったし、幸せな国民の国家だったのである。

その国民が、どこのエデンの苑でリンゴを食べたのか・・・・そんな生き方に疑問を持った・・・・今日の騒動は、そこに端を発しているカダフィーが悪いのでもない。それの反抗し始めた国民が悪いのでもない・・・・カダフィーが、現在も永遠に続くことを願っている、あるいは、それが正しいと信じているだけであり、国民が、「違う・・・」と叫んでいるだけのこと・・・。どちらに傾くか・・・・人類・数千年、数万年の歴史に照らせば、カダフィーには無理があるだろうな・・・・彼の数十年の政治・政策が成功したから現在の豊かさがあり、豊かな国民がある。

今、国民が気がついたのは、「俺達には政治という権力がない・・・」と云う事なのである。カダフィーは、お前達がそんなものを欲しがるのが間違っていると云うのだが、先進国家に目をやると、やはり「政治的自由」は魅力である。恐らく、今直ぐに、その権力を手に入れても、それは騒乱を惹起するだけだろう・・・・幕末の庶民が、特に江戸に住む町人が、決して「明治」を望まなかった様に・・・・王様のいなくなった池に、王様を求める「蛙」の状態になるだろう・・・そして、間違って「鴨」を王様にすれば、蛙達は、全部喰われてしまうだろう。今、国民意識に目覚めたイスラム国家の国民が、もっと苦しい政治情勢を、自ら作り出そうとしている・・・・彼らは、悲劇に向かってまっしぐらにすすんでいるのである。

しかし、これは「陣痛」である。

政治とは、国家とは、政権と国民が共に苦しみを分かち合って、試行錯誤を繰り返すところに、「苦しい幸せ」がある。栗島なければ、幸せはない・・・・それがnormalなのである。その自覚があってこそ、国家が生れ、維持され、発展への道が開ける・・・奴隷的国民の意識の中に、その苦しみに向かっての「時代の犠牲」としての己が芽生えるか・・・そんなに長い時間は許されない・・・苦しみの中に死すべきは死し、その死を乗り越える生者の生き方が、その死を価値づける。

緩慢な変革・・・我々もその環境にある。政治を嘆くのは、まだ奴隷になっていない証である。まだ、我々は間に合うだろう・・・・しかし、自ら奴隷の道を歩むのは、案外に容易である。特に、豊かな現在を緩慢に貧困に導き、その過程で奴隷化するとき、それは、奴隷になった己にさえ気づかないものである。かつて、韓国併合に至る、韓国の政治情勢を、私は、その中に見る思いがする。朝鮮半島と云う「池」の中の韓国国民(蛙)は、大きな歴史のうねりの中で、清朝中国に変わる覇権国家・ロシアの侵略に曝されていて、朝鮮王朝は、ロシアの力を借りて、日本と対抗しようとしていた。つまり、「王」を選ぶ池の蛙状態だった。そこに、甘い笑みを浮かべて、日本が進出、1910年に併合に至ったのである。もし、当時の日本が、虐殺、強奪・・・あらん限りの暴力的侵略を行っていれば、韓国も朝鮮半島の庶民も、全力を上げて、テロ的にでも、日本に抗したであろうと、私は考える。

現・中東が、その様な状態になる懸念はないが・・・時代的に・・・しかし、中途半端な妥協的解決は、また更に、数百年の苦界的国家を生み出すのではないか・・・私は懸念する。

平和に生きようとすることに惹起する危険・・・・我々も「他山の石」として、刮目して、newsに接するべきであろう。