人情相撲・・・・舞の海の弁

「人情相撲は無くならない・・・・」。これを、八百長相撲と取るか、否か。私は、人情相撲と八百長相撲とは別のものだとかんがえるのだが・・・あるいは、「無気力相撲」の誹りは免れないかもしれないが、それは、人情相撲の「技術・技量」の問題だろう。
そして、人情相撲の定義を、「勝者に選択件があることを前提とする・・・」。つまり、負けの込んでいる力士、あるいは陥落の淵にある力士から申し出れば、それは「八百長相撲」とみなすべきである。

あくまでも、勝ち越している力士から、与えられる、土壇場の力士への同情とするべきだろう。そうすれば、次の様な取り組みにおける無気力相撲八百長と定義されるだろう。
①負け越している力士同志の「人情相撲」は存在しない。
②大負けしている力士が、勝ち越しを賭けた力士への星を譲ってはならない・・・明らかに八百長相撲とする。
③下位の力士が、上位の力士の勝ち越しの為に無気力相撲を取れば、それは八百長の類である。
等々・・・・。

相撲は、上位力士が、下位力士に必ず勝つということではないのは言うまでもないこと。面白さの大半は、その興味にあるのであり、上位力士の勝利だけを相撲だと思う野暮がいると、場所の雰囲気は大きく損なわれる。

端的に言えば、「賭け金」を伴わない八百長相撲は、一つの愛嬌だとする観客の気持ちの大きさが、相撲を面白くするenergyになることを、私は強調しておきたい。何が何でも「真剣勝負」を望む方は、ヤクザの命がけの闘争でもみていて欲しいものである。弁当を食べながら、酒を飲みながら・・・力士にだけ「真剣」を要求する観客の我が我慢に苦言を呈する関係者も欲しいものである。

「人情相撲」・・・大いにOK。面白い相撲を期待して、五月場所を開催して欲しいとおもうが、東北・太平洋地震を盾に、7月場所まで、その営業中止を延期するのではないか・・・今回地震で被災された方々を慰める意味でも、私は、五月開催を望みたい。