災害は国難の時にやって来る・・・

TBSの岸井解説員の、サンデーモーニングの結びの一言である。そう言えば、阪神淡路大地震も、政局が混沌としている時期だった。今回は、総理の椅子が大きく揺らぎ、政権与党が混迷の中にある状況の中で発生した大災害だった。

しかも、津波のみならず、原発メルトダウンすらも併発しそうだと、これを書いている時点では報じられている。社会は、人間の欲望で満ちているのだから、色々な防災対策も処理も、個々人の欲望を前提に行われる。「安全・・・」は大義名分であり、其処に、己の不利益が見えれば、その対策・方法を骨抜きにすることもやぶさかではない。被害者は、他人に負わせる心算、利は己が得る心算・・・しかし、己といっても、その同胞に及ぶことには気がつかない。

今回の災害地も、歴史の中に、予想できない地域ではない。只、遠い時間への尊敬が必要だったかもしれない。つまり、東北地方は、明治年間に、数万人の被災者を数えるし、仙台地方は、1、000年の昔に、今回規模の地震を体験していることが、その文献に散見できるそうである。もちろん、その知恵が生かされなかったことに「非」を唱えるものではない。しかし、今回の半生として、その知恵を生かすか、否か・・・政治を絡めていえば、その議論が可能な環境・雰囲気にあるかと、言う事なのであろう。

TVのテロップを読む限り、犠牲者は高齢者である。若い命はあまり失われていない・・・非難を浴びるかもしれないが、一つの僥倖でもあるだろう。まだまだ、この社会には余力が遺されたのである。そして、被災した高齢者が、元の、だだ拾い自宅を再建することも、住み続けることも不可能だろう。地方自治体が、格安のapartment houseでも準備すれば、高齢者の、色々な介護のcostも引き下げられるし、当人達も安心だろう。高齢の独居で高騰させている社会costの削減への方向性を見せるかもしれない。

災害は「運」である。国難の環境下に発生するのは僥倖である・・・・現今、労働力は余っている・・・・復興に、その労働力が大きな力になるだろう。新しい防災の技術も、あるいは、街のlayoutのideaも生れるだろう。列島の北側に、新しい日本が誕生する力になって欲しいと願う。国難は、国民の責任である。その国難を救うべく、神が災害をもたらした・・・新しい、日本の活力が生れる日であると、私は考えたい。