50Cycle、60Cycle・・・・

関西電力から、九州電力から、関東、東北に電力を送ろうとしても簡単なことではないことに、今朝の新聞に知った。久しぶりに聞く・読む「電源・周波数」の事である。

古い圧延工場で、現場managementの担当者であったころ、英国製の圧延機・motorが、急にその動きを鈍くすることがあった。電気の事には詳しくはないのだが、何でも、輸入品の電動機の「励磁機」は25Cycleで、普段は、その後に付加された60Cycle・励磁機で稼働しているのだが、その60Cycle励磁機が故障すると、25Cycle励磁機に切り替わる・・・と、言う事だった。なんとも、もどかしい動きで、いらいらさせられたものである。

その数年後、engineering部門に転籍になり、makerに渡す、設備仕様書の作成の時に、電源Cycleの仕様欄を空欄で渡してしまい、必要な設備は50Cycleなのに、北九州のmakerが、60Cycle仕様で、見積書の提出があり、私の失態と判明、大目玉を何度か食らった記憶が蘇る。

何でも19世紀の末に、Germanから輸入したものが50Cycle、Americaから輸入した物が60Cycle・・・それ以来の東西分裂状態が続いているのだとか・・・・孫文の指摘した、狭軌広軌の問題に似ている。つまり、近代化を急ぐ当時の軽率な判断とも言うべきものだが、今更責めることもできまい。文明・とりわけinfrastructure的設備には、生じやすい不具合である。「改めるに憚ることなかれ」・・・の箴言が生かされない典型的な事例である。今後をどうするか・・・重大な問題でもあるだろう。

設備とは、その設備の誕生も、設置も、稼働も・・・至って人間の脳の中で判断されたものである。新しい状況下では、素早く現状に適応すべく改められるべきであろうが、その物量とcostを考えれば、そうやすやすと実行出来るものではない。ならば、将来を見越して事前に考えておくべき、あるいは、将来を見越した設備にしておくべき・・・・まことしやかな「正義論」であるが、未来・将来とは、基本的に予測不可能である。また、妙に将来を考えた設計にしたために、未知の将来が現実になった時、全く適合できない無用の長物になってしまうことも、稀ではない。

狭軌鉄道にしても、狭軌の建設と広軌鉄道の建設と・・・・当時の政府の負担を考え、当時の輸送量を考えれば、容易に広軌の決断は下せなかったであろう。現実に、インド、イギリスは、多様な軌道幅の鉄道が大手を振って動いている・・・貴族や企業化が、自分の趣味や、自分だけの必要性で建設した鉄道であると云う事情があるのである。また、鉄道の経路だって、海岸から遠い所に敷設して、後の発展の事情から、海岸に軌道を新たに建設したり、変更したり、各地に、その痕跡を残している。例えば、北九州市・八幡区の大蔵付近の、かつての電車通りから南側に数百メートルの細い道がそうであり、鹿児島本線の、赤間トンネルの東郷側にも、かつての鉄道の軌道あとが道路として残っている。何れも、海からの艦砲射撃を恐れたものである。

人間は、infrastructureであれ、日用品、あるいは行政systemにしても、一度は経験しないと、その欠陥は見えないものである。今回大地震の「原発」の事故でも、「何故?」と問いたい人は多いだろう。怒りを感じる人も多いだろう。しかし、costperformanceを考えれば、多少の懸念はあっても、最良の選択をしたものである。その結果について、騒ぐのは愚かである。犠牲は、文明に付いて回る・・・勿論、その最小化には全力を傾けるべきであるが、必要とされたものには、リスクが絡む・・・これを書き込んでいる私にしても、その覚悟は求められているのである。恐らく、人間が、「電気」で生活を始めた時に、その危険性は格段に増加したのだと、私は考える。

50Cycle、60Cycleの問題も、その裏に、どんな危険な問題を孕んでいるか・・・私には見えない。原発の必要性もまた、ここに絡んでいるのかもしれない。今は静かに、原発の危険が去るのを待つだけだろう。