分からない、理解出来ない・・・ことが自慢になるか、誇るべき事か・・・・

原発事故関連の、関係者の説明が分からない、分かり難い・・・ニュースキャスターや馬鹿なguestがあたかも、正義の味方の様な顔で、「分からない」ことを誇らしげに強調する・・・・まことにみっともない風潮に同調するブログも多い。

情報は、可能な限り、後に結果的に誤報道だと指摘・非難されても、その時点で正しいと考えられる事実を正確に伝えるべきであり、その努力が要請される。専門用語も、悪戯に多様に理解される様な言葉、単語は、例え、それが理解され難いものであろうとも、聞く側の耳に慣れないものであろうとも、きちんと状況を踏まえた、その状況を伝える目的の言語、言葉であるべきである。

そして・・・それを、分かりやすく、誤解への恐れを可能な限り払拭しながら、一般の人々に伝えるのがmediaの義務であり、責務であるべきだろう。専門用語で発表された事実を、伝える技術を日頃から鍛えていないが為に、関係技術者の言葉が理解出来ずに、オーム返しに伝える・・・そして、自らの職責を忘れて、分かり難さをあたかも技術者の落ち度の如くに伝える・・・mediaの堕落以外の何物でもない。

また、我々も、日頃の原発への無関心が、その様な状態を惹起していることに、謙虚に反省すべきであろう・・・惹起、謙虚も分かり難い言葉として非難する人もいるだろうが、そんな人々には読んでもらいたくない・・・私である。

日本の文化は、学ぶ庶民が継承してきたものである。故に、中世にも近世にも、Europeでは普通の景色であった「タウンクライマー」の姿は、都市にはなかった。「高札」で十分だったのである。しかも、可なり、今日の私達には難解な言葉、漢字熟語も使われていた・・・水呑百姓levelの日本人には「文盲」も存在したであろうが、少なくとも、小作人以上の農民、そして町人階級に殆ど文盲はいなかったのではないか。故に人口の90%が農民だと云われる江戸時代にあって、識字率60〜70%を超えていたのである。

戦国時代から江戸時代へ・・・沢山の武士が「主」を失い、「主」から解雇され失業した。全く反乱・暴動がなかったわけではないが、百姓・町人の失業者は、江戸の街作りに動員され、武士は、その多くが、貧しさに耐えながら、多くが、長屋の教師になったのだと云う・・・長屋に住み、傘張りをしたり、細工物を作ったり・・・傍らで、子供たちに、授業料を取ることなく、市井人としての、大人の役割を果たした・・・・こうして、江戸時代が、明治維新を準備し、鬼子の様な新鮮組も、そんな環境で誕生したものである。そして、津田梅子に代表される教育者の多くが、賊軍の汚名を背負った東北の地から排出して、近代国家の底を支えたのである。

江戸時代の生活史の学者の著書によれば、子供は、3歳になれば、殆ど遊ぶ時間は与えられたのだと云う・・・男の子も、女の子も。何故なら、字を覚え、色々な書物が読める事、そして、文章が綴れることが、その階級を上げる手段であり、男の子なら、武士への転身を可能にし、重責を与えられることも可能であり、名家の養子の可能性もあったからである。江戸250年・・・この養子で家系を繋いだ「家」は、幕末を生き抜き、今日までも家系を保っていると云われる。
そして、女の子は、武家にあっては「篤姫」の故事があり、商家にあっては、大奥努めからの出世のchanceを掴むことがかのうだった。大奥ならずとも、有名家系との婚姻もあり、一家の飛躍の要因にもなったのであると云う。
明治が如何に成ったか・・・・中世から近世・・・江戸時代に至る、下剋上を経てこの列島に根付いた、「学ぶ」ethosが、急いだ近代化を可能にしたのだと・・・・その後、後進的国々の殆ど全てが、日本に追随できなかった大きな要因は、民族・国民の「学び」への関心の軽重感覚だったのである。

原発の全てを知りつくせ・・・と、言うのではない。其処に使われる、そして、必要な情報を理解する為の知識は、各自で学んでおくべきである。「マイクロ」と「ミリ」・・・この違いが分からなくて、中学校、高等学校、況や大学を卒業したのか・・・男性であれ女性であれ・・・・恥ずかしさを思え・・・と、私は言いたい。

また、原発の構造も、百科事典には詳しい説明がある・・・学んではならないと云う「掟」があるのでもない。日常は無関心でも、原発の事故が喧伝される事態になったら、図書館に掛けつける位の謙虚さは持っておくべきではないか。

「分からない・・・」、「知らない・・・」なら学ぶべきである。それを「自慢」にし、「誇る」ことは、恥としなければならない。それが、正常な市民感覚である。

「国家」とは、学ぶ人々の為のものである。あるいは、学ぶ必要のない「奴隷」から脱する、逃れるための、政治のシステムである。故に「言論の自由」が民主主義の基本に備えられるのである。勝手なことを言う為に「言論の自由」があるのではない、「学ぶ」てめに、「言論の自由」が必要なのである。

「君の日常が平穏である為には、二つの方法しかない・・・・一つは、頂点に君が在ること〜王様になること、もう一つは「奴隷」になること・・・」と、これは、哲学者カントの言葉である。君が「王」になる事は大変なことだろう。しかし、「奴隷」になる事は、それほど困難な事ではない・・・・そのままでも、「奴隷」には成れるのだから・・・。

分からない・・・と、他人の所為にする前に、「図書館」に駆け込もう・・・!