手(指)を切らない包丁が存在するか・・・・?

眼科の待合室で、TVを観ていたら、中国での日本人学校(だと思った)の弁論大会の様子が報じられていた。高校生の弁論だと、私は聞いた。勿論、其処で学ぶ中国人の学生の弁論もあった・・・3,4人の弁論を拝聴した。これに、真正面から反論したり、批評・批判したりすることは控えたいと思う。私とて、中学校の弁論に属して、大会に出場することは叶わなかった、校内の予備選出の為の論文審査には、常に応募して、担当の教師から厳しい評価を貰っていた。当時の、私の論調が、TVの中の子供から聞こえて来たのが楽しかっただけである。

その中の一つ・・・故障する前に、事故を起こす前に、故障しない方策を講じ置くべき、事故を起こさない設備にしておくべき・・・との強い論調の弁論が耳に残った。そして、それ寄せる、TVにguest出演のcommentの出しなさである。「子供たちはりっぱですね・・・大人達には何故分からないのだろう・・・・」と。「お前は阿呆化か・・・」と、口走って、隣に座った方を狼狽させたが、言葉を慎むべきだろう・・・勿論、commentatorである。

包丁を始め、道具はその使い方を誤ると、使っている人、側の人を傷つける。また、保管のし方が悪いと、全くの無関係の方までを傷つけ、時に殺人の道具にもなる。その意味で、日本の台所には、「殺人の道具」に相応しい包丁が何本もある。だからと言って、それが「殺人」に使われることは、非常に稀である。むしろ、外国産のknifeの方が、使われるcaseが多いのではないか・・・日本の殺人者は「道具を選ぶ」と、呟いた作家もいる。

原発にしろ、新幹線にしろ、文明は、必ず事故をその中に潜ませている。利用する側も、運用する側も、得と肝に銘じてことに当たらねばならない・・・当然の事である。

最良は・・・・事故を起こす前の手当。点検であったり、早めの部品交換であったり、日常的なmanualの見直し訂正であったり、其処に応じた対応がある。最も注意をすべきは、mannerism化である。政治家の悪口であれ、関係者への誹謗であれ、それがmannerism化すれば、それは、日常の設備の点検にも理念として蔓延する。福智山線の、悲惨な脱線事故も、懲罰を受ける事がmannerism化した、運転手の、mannerism化した不満が、mannerism化した運転を生み・・・そして、mannerism化しない設備が暴走した・・・と、私は理解している。

次策は・・・・manualの日常的点検と果敢な修正であり、現実に適応したmanualとして存在させる努力である・・・言うは易く、行うは難し・・・容易ではない。万点は無いのである。そして、其処には、自由な発言を許す環境が必要であり、その自由な発言を批判する事への嫌悪が日常化して置かねばならない・・・そかし、この環境はmannerismを生ずる温床でもある。

件の高校生も、大人になれば、自身の主張に大きな矛盾があることに気がつくだろう・・・気が付かねば大人ではない。昨今、そんな大人が多いのだが・・・考える人・・・件の高校生の様な・・・が増えれば、その矛盾を乗り越える知恵も沢山生れる。私は、全く心配しない・・・寧ろ、現代の大人達の役立たずが、早く一掃されることを切望する。

そもそも、この列島の文明は「高地」に発祥したか、大陸から渡来した人々も、当初は「高地」に住み、焼畑、狩猟・採集の文明で生活し、川の流域の開発を進めながら、海岸に至り、増加した人口を養うために海岸に進出し、農業を拡大し、漁業に進出したのではないか。

869年に記録される「陸奥国地震津波」の記録も、学者の弁では1,00人以上の死者が出たあるそうだが、当時に置いては、大きな人口損失であったろうと推察する。その時の「砂」が、仙台市の彼方此方に残るそうだが、その時の海岸線は。現在よりも内陸にあり、海岸線に沿った地域は荒蕪地だったのではないか・・・先の東日本大地震津波の被害は、その後の人間の進出故の被害の規模なのである。古代に属する歴史の記録だから、そこから今回の津波への対策を講じることは不可能に近いことであるが、今後の虚君としなければならないことは、その復興の端緒の覚悟としなければなるまい。それでも、絶対に指を切らない包丁になる保証は全くない・・・しかし、教訓として残し、きちんと伝承していくならば・・・勿論、新しい知見を付加し、新しい技術で補強していくならば、そこに、最小限、人命を失わない装置としての国土は夢ではないだろう。

現状の不満に終始する人々の「言」が、それとして救済の手が必要だが、その側に、次の世紀へ向かっての新たな覚悟が生れなければなるまい。そして、新しい行動が・・・・。