幻想の被災地・・・・平成の栄華を目指して・・・・

戦後だったら、津波の跡地には、数百の、廃材を使ったあばら家が出来ているだろうな・・・そこから、廃材を燃料にした炊事の煙と蒸気が、幾筋も立ち上っているのかも知れない・・・・

かく言う私は、北朝鮮興南で戦中を育ち、戦後も、翌年の5月まで過ごしたので、空襲はおろか、一発の銃撃も経験がない。至極平穏無事な、そして静かな戦後の経験しかない。もちろん、虜囚となったが故の体験はあるが、それでもって飢えたとか、寒さに震えたと云う体験もない。私の戦争は、昭和21年5月の、手漕ぎ・帆かけのメンタイ舟で日本海を漂流し、4日間を飢えた体験と、引き揚げてからの極貧暮らしだけである。そして、昭和22年の夏、21年の暮れに、日本の正月を観ることなく逝った74歳の祖母の遺骨を、祖母の生地の広島県世羅郡の墓に納めるべく、訪れた広島の、まだ被爆の後も生々しい、仮駅舎からの光景だった。駅には、まだ、沢山の浮浪児がたむろし、私たちに、サツマイモの粉で作った「真っ黒な団子;食事」を食べる私たち親子の周りを、彼らに囲まれた・・・当時は恐怖・・・体験である。また、切符を買う時、お釣りと切符は、出札口の向こう側まで腕を伸ばして、受け取らなければならなかった・・・異常な記憶である。従って、映像的には、当時の映画館で、ニュースの中に観た光景、あるいは、新聞の写真、そして、後日に雑誌に、写真集に目にした写真の中の光景である。

北九州(八幡)の空襲の焼け跡は、昭和21年、運良く、看守に奉職できた父の努めていた拘置所の花見に行くべく乗った、すし詰めの電車(折尾〜いとうず)までの電車の中から・・・半ば、整地が進んでいたと思うが・・・の、空襲の跡だった。後日に、桃園の小さな公園の防空壕で、百人を超える地域の日々とが悲惨な最期を遂げた事実をしることになる・・・その碑は今でも健在だと思うのだが・・・・

津波の被災地に、寒さの路上に震える子供はいない。救援物資を取りあって争う人の姿もない。炊き出しの場所で、他人の食べ物を奪う人もいない・・・整然と列を作り、その列を乱すこともなく・・・「もの」が入手出来なくても、その場を静かに去る人に、悲しい表情はあっても、明日は他人を押しのけようとの悲壮感もない・・・

避難所には救援物資が届いても、孤立した、人々に届くには時間を要する・・・ロジスティックの問題なのだが、他人に席を譲って苦労する人々の姿であるが・・・この種の経験・体験の不足が招いた事象ではある。しかし、情報が整備されることにより、これを書いている時点では相当に改善されている・・・戦後の焼け跡では・・・生か死か・・・その選択は個人に任されていたのではなかったか・・・一部買占めに依って不足をきたしたものもあるが、それが、決して「思惑買い」に類するものではなかったことは、私は確信する。個人的に、子供に、幼子を抱えた娘や息子への個人的な救援物資となったのであろう・・・と、友人のメール等から推察する。

続々と被災地に贈られる救援物資・・・・米があり、インスタント食品があり、お菓子があり、ジュースがあり、お茶があり、勿論「水」もある。また、長靴があり、毛布があり、衣類があり・・・恐らく書きつくせないだろう。国の豊かさとは、この様な実態を言うのであろう。一部海外に救援を仰ぐものもあろうが、基本的な生活必需品は国内で賄える・・・これこそが、世界に冠たる、経済大国の証であろう。


荒廃した被災現場に「家・バラック」が出来ない・・・手厚い避難所で、一先ずは「命」を支えることが可能だからである。そして、その避難所で、子供たちが存外に元気である・・・勿論、長引くことは懸念するが・・・高学年小学生が、あるいは中学生が、その幼子の面倒を見ている・・・放映の対象にはならなくても、避難所の様子を伝えるTVの映像の片隅に見付けることが出来る。現代っ子の素晴らしさである。そして、マイクを向けられた時のコメントが素晴らしい・・・私の、あの年代では全く不可能だったろう・・・戦後教育の素晴らしさが、避難所の随所に見られる・・・・日本は大丈夫だ・・・と、私は、此処からの復興に寸分の懸念も抱かない一人である。

被災地には「希望」が見える。遠くの「県」が喜んで住居を準備して移住を待ってくれている。親戚や友人宅に長くお世話になる、逗留することの苦しさは、戦後に置いても同じだった。貧しかろうと、豊かであろうと、人間相互の感情は、日増しに縺れる糸・紐の様なものである。自分の表情が自分には見えず、身体の部品の中で、殆ど自分ではコントロールできない部品であるが故に生じる感情のもつれなのである。

人は支えあう・・・と云うが、それには適当な距離が必要であり、感情を処理できる空間が必要である。それは、戦後に於いても、親戚や友人に助けられながらも、そこに存在する微妙な感情の縺れに苦労した人々の経験談にあっても、語られることはない。語る事すら難しい・・・解決策はないと云う事である・・・・離れて親しく・・・この距離感こそが、個々人の知恵でもあり、決断でもあると、私は、私の体験としても思う。「絆」・・・これは、物理的に繋がってはならないのである。ある距離、一定の距離があり、例えばそこに相互扶助が生れれば、「絆」と呼ばれるものなる・・・その程度のものではあるが、されど「絆」なのである。

福島から、娘の嫁ぎ先の福岡に、当面の生活の場を移す・・・しかし、娘の家族と同居することではない。福岡県の差し出す、援助・・・県営住宅・・・を受けるという選択である。「絆」とは、この程度のものであると、お互いが理解した時・・・今回は、次の災害の大きな知恵になり得るものだと、私は思う。

原子力発電所」の事故は、世界の原発に大きな事実と、今後へのヒントを遺すことになるだろう。今日まで抽象的に論じられてきた「原発・事故」が、その実態の一部を露見させたのである。人類が、観念的には、理論的には知っていても、その実態を、始めて体験しているのである。復活には長時間を要するだろうが、この事故から体験したものは、言わば人類の「宝」でもあるだろう。また、今日に我々が安全に享受している文明も、この様な先人の苦労を持って我々に継承されたものであることを、改めて意識させらる。

津波に襲われて被災地も、すこしずつ復興への歩みを見せている。人々も、冷静な判断で、わが身を処する知恵をだしつつある。一部観念的な思考に囚われた部分も、その経験の中から新しい出発をすることだろう。この東北の地に、新しい日本が誕生するかも知れない期待を私は持ちたいと思う。

平成に誕生する「藤原の栄華」を、私は幻想するのだが・・・・