あるべき教育とは・・・・

西日本新聞・3月28日朝刊の囲み記事から・・・

この日現在で、岩手県釜石市の死者・行方不明者数は、1,200人である。その釜石市の沿岸部にある、小中学校・9校が、避難させた児童生徒数は1,800人・・・一人の犠牲者も出していない・・・と、報じている。
市教委によると、死亡した市内の小中学生は5人・・・これでも随分と少ない人数だと思うが・・・病欠や早退、地震直後に親に保護されて学校を離れたケースだと云う・・・内容が、少し分かり難いのだが・・・


鵜住居小学校の光景は壮絶なものだった・・・ニュースに紹介されていた・・・三階建ての校舎の屋上に、大きなクルマが押し上げられている光景だった。他の2校も、津波で使用不能になるほどの被害を受けていると云う。特に、鵜住居小学校と、釜石東小学校の児童500人は、一旦は近くの老人ホームに避難・・・水位が上がってきた時の判断で、更に高台に避難したのだと云う・・・中学生が小学生の手を引き、小学校の高学年は、低学年の子供を先に歩かせ、その後ろを追う様に避難したのだと・・・も。


マイクを向けられた子供が例外なく、その避難行動を何気なく語っている姿に、日頃の「訓練」の様子が浮かんでくる。つまり、形式的なものではなく、きちんとした、実態に即した被災の状況をイメージした実効的なものだったことが垣間見える。記事によれば・・・・
①市教委と各学校は、群馬大学の協力を得て、津波の脅威を理解する授業を展開・・・し、
②地域の浸水状況をシミュレーション画像で学び・・・・、
③避難マップを作り・・・・、
④教員向けの防災教育の手引きを作成し・・・、
⑤意識の向上につとめて来た・・・
のである。

もちろん、「運」の良さも働いたであろう。しかし、これだけの準備があったればこそ・・・「運の女神」もほほ笑んだのではないか・・・人間に「僥倖」とは無条件には与えられないものだと、私は思う。「運」が巡るか、巡らないか・・・それも「運」であろう。しかし、、その「運」が生きるか、生きないか・・・そては、日常の努力の賜であると、私は考える。

「震災の中で、子供たちが学んだことを生かせたことは救いだ・・・」との、市教委の指導主事の言葉の、何と謙虚なことか・・・学ぶとは、その条件に、この謙虚があり、昨日の「私」を超える「私」が今日になければならない・・・が、子供に注がれる教育関係者の「眼差し」が、昨日の「私」を超える「私」を育てる原動力にもなっているのだろう。

「実践」の中で役立ってこそ「教育」なのである。毎年、行われる防災訓練・・・実践的か、否か・・・その視点に見える疑いが、この実践的な教育を生んだのではないだろうか・・・津波災害とはそんなものではないよ・・・と、形ばかりの防災訓練に惑わされずに、子供の命を救う防災訓練・・・その形からシミュレーションへ・・・その努力に、私は深い敬意を捧げたいと思う。

命を救われたのは「子供たち」、

そして、人間として救われたのは「教師、教育関係者」であったと、私は、最大の賛辞を贈る!