頑張れ新入生&転校生・・・・

各地で、入学式が行われるnews。場所に依っては、卒業式と入学式が同日に行われる地域もあるらしい・・・この非日常性が、子どたちのtraumaになることはあるまい・・・と、半ば無責任に思う。願いは、こんな経験に恵まれたことを、これからの人生に活かして欲しいと、私は思う。

今、「流れる星は生きている藤原てい」を読んでいる。私も引き揚げ者だが、これほどの苦労はしていない。満蒙から、北朝鮮から・・・その苦労は、夫々の運命としか言いようがない。また、ソ連軍に追われた苦労よりも、帰国後の「開拓地」での生活が、それに倍する程辛かったと語る、開拓民の方々もいる。霞が関の開拓団に苦労した方々の話に、「あそこは化け物が出る・・・」と云われたそうである。戦後、何があっても、「平和」のスタンスを外れることのなかった、この国の政治と外交も、これらの方々の苦労なくしては、生れ得ない政治風土であったろうと、私は思う。

今回の被災が、過去のの、あるいは歴史に学んでいなかったことを指摘する方もいる。謙虚に耳を傾けるべきだろう。科学万能、技術万能の雰囲気に溢れた戦後ではあった。それは、戦争を終わってみれば、我々が、世界の科学に、その日常生活が遅れを取っていたことに気づかされた故である。故に、浅くは学んだ。しかし、もう少し深く学ばねばならなかった・・・それが、今回の教訓であろう。

原発もしかり。技術の粋だと思っていた。しかし、設備の基礎部分に漏れる漏水を止めるのに、あの苦労である。我々が、「科学・技術」の何処を見ているのか・・・子供たちの世代に、今回被災の「総括」が終わるのだろうか・・・あるいは、もっと深く総括されるのだろうか・・・元気な子供たちへの期待は大きい。この子達に、ツイッターに戯れる日々は許されないのだろう。戦後の焼け跡の我々に、「遊ぶ」ことが許されなかった様に・・・・
新入生も、転校生も、それぞれの環境で、全力を尽くして欲しい。次の世代の為に・・・

TVに感じる限り、私たち引揚者が舐めた苦労は多少は軽いのかな・・・それは、言葉である。植民地では、日常も「標準語」だった。親たちも、同郷の誼で語る場合を除けば、標準語が常だった。私は、筑豊炭田の中間町の、中間小学校に入学。標準語で話す故に、苛めの対象になった。「生意気だ・・・・」。一体に、植民地の子供は勉強が良くできた・・・と、云うより、内地よりも先を言っていた。私の、転入した時(4年生)の通信簿には、優、良を凌いで、「秀」が二つも三つも並んでいる。勿論、6年生の時は、普通の成績に戻っていたが・・・。その成績が苛めの対象にもなったが・・・幸い、担任教師の配慮で、間もなく止んだ。

避難所の、子供たちの言葉を聞いて射ると、殆ど方言を感じない。地域で遊ぶ時は方言も使うのだろうが・・・学校の中では不自由はないのではないか・・・寧ろ、放課後は、新しい友達に、「方言」を教えてあげる余裕が生れ、教師が、そんな空気を助成してあげれば、地元の子も、避難の子供も、ひとつ世界を広げることになるのではないか・・・そんな事を思うし、そうあって欲しいと思う。子供の好奇心が、苛めに転じるか、あるいは、地元の子に新しい世界を垣間見せるか・・・一つは、地元の子の親の教養である・・・難しいことを言うのではない。避難の子に知った色々な情報を、是として楽しい話題に転じるか、あるいは、「差別」に転じるかなのである。「あの子、変わってるね・・・」の一言が、苛めを生む。もっと知りたいね・・・との感情があれば、親子を含めた交友も広がるだろう。

お互いに、世界を広げる・・・そんな意識があれば、苛めは生れない。新しい子は学ぶ方向にある。そこに、地元の子に不思議を感じさせるヒントが生れる。お互いに知ろうとするenergyがあれば、そこには、新しい、そして永遠の友情しか生れないのである。
避難の子も、そして受け入れた地域の子も・・・切磋琢磨頑張って欲しい・・・。期待が大きい。