「覚悟」をもって生きる覚悟・・・・

三度目の津波を経験した夫婦の話・・・西日本新聞の囲み記事である。

一度目は、1933年・昭和三陸地震;母に手を引かれて逃げたのだそうである。記憶の中には、真っ暗ななかで、家族の名前を呼び合う声があると云う。

二度目は、1960年の「チリ地震」;結婚して5年目。マイホームの為の材木の全てを失った。また、家業だった「養鶏」の鶏;150羽が流された。

そして、三度目が今回である。激震の後、主人公・辰雄さんは、妻の定子さんに「靴を履け!」と促し〜命令だろう〜着の身着のまま外に出た・・・「津波が来る・・・」;直感だろう。夫婦で、近所に触れて回った・・・さしずめ、「タウンクライマー」だったのだろう。それでも、「二階に上がれば大丈夫・・・・」と、避難をためらった方もいると云う・・・津波の犠牲になったのであろう。

膝の悪い定子さんの手を引いて、400メートル離れた寺へ・・・しかし、津波は、その山門に迫った。更に高台に、急峻な山道を定子さんの手を引いて上った。そこに展望した光景は・・・大火災が山に広がり、避難所にも迫っていた。自宅は影も形も無かった。

津波の恐ろしさを知りつくした辰雄さんの行動だった。日頃でも、少しでも大きな地震があれば、近隣に声を掛け、避難所に向かうのが習慣になっていたのだと云う。1800人の子供たちが無事だった小中学校でも、日頃の真摯な訓練が功を奏した・・・訓練等は、単なるceremonyではない・・・阪神淡路大震災にも知り得なかった教訓であると、私は、強く思う。

しかし、彼は、この地から逃げ出すことは考えていない様子。繰り返される津波被害から、その都度立ち直り、郷土を復興させてきた。内陸部への移転を勧める兄弟もいたが、彼・辰雄さんは断っている。「老いの一徹」以上のものだろう。「自分の生れた地。みんなで助け合っていける、この地で暮らしたい・・・」の一徹である。

逃げる知恵も人智なら、そこに留まる勇気を生むのも人智の故であろう。生きていける・・・の確信には、その確信を支える度胸がある、覚悟がある。また、覚悟を支える、日常化した「客観的な観察と、その対処の行動」に裏付けられているのである。人は、かく生きるべきなのだろう。

郷土を愛するとは、郷土を守る勇気と、自らの命を全うする、己の人智を有すると云う事であり、日頃の真摯な涵養を忘れないことであろう。津波の跡地を「荒れ野」にする・・・政府は考えている様だが・・・私も、一つの方法だとは思う・・・しかし、辰雄さんの様な方の存在することも忘れてはならないだろう。

今回地震津波を「想定外」と云うのは簡単である。しかし、地球、天体、自然の目でみれば、かくのごとき今日の人類の「生き方」こそが、自然にとって、地球にとって、「想定外」だったのではないか・・・そんな視点も考えてみる価値はある。

しかし、「勇気」は忘れたくないものである。逃げて、安住の地があるのか・・・・地球は、それほど甘いものではないだろう。「主観」に溺れる己への反省・・・・私は、自戒の原点に置きたいと思う。