主張を聞く会

11日の、福岡市内の自治協議会が県議選と市議選の離候補予定者を集めて「主張を聞く会」を企画した・・・と云う囲み記事である。囲み記事だから、詳細な内容は知りようもないが、何時か、紙面を飾る日もあろうかと思うが、落選した議員の主張に、私は興味がある。

濃密な質疑応答があったことを伺える、短い記事だが、conceptは「反対意見の人と議論する」ことにあるらしい事が伺える。

私自身は「巣篭もり老人」だが、月に一度の「分別収集の日」に、世話人のお手伝いでも出来ればと、stationに立つ。実は、「巣篭もり」の日々を補うべく「対話」を求めているのだが・・・約10年間、殆ど収穫はない。全くないわけではないので、多少の、あるいは儚い希望を絶やさない心がけだけである。

今月は、最初の分別収集だったこともあって、男性が多かった。また、廃物を出した後も、stationに残って、疑似・井戸端会議に加わる方もいた。また、前年の隣組長さんと、今年度の隣組長さんが親しかったこともあって、初体験の新組長さんを指導していた。

しかし、私が喋りすぎるのか・・・話は弾まない。立ち話ではあるが、全員が参加しているようで、そうではない。色々な話題が飛び交っている中で、二人だけの会話に余念がない。私には、寂しい光景だったが、期待された通りの答えが返ってくる対話が、実は安心でもあるし、別れた後に何も残らないの・・・気の置けない話?・・・で、安心らしい。つまりは、「考える」契機になる話は回避されるのである。

例えば、分別収集の「tray」の中に、違反物が絶えない。我が街では、ペットボトルはラベルを剥がすことになっている。瓶の注ぎ口は外さなければならない。また、包装紙類を、ひとまとめにビニール袋に詰めたまま出すことは禁じられている。また、ガスボンベの類に、「穴」を開けないで、時にはガスが残留したまま出す・・・等の違反が絶えない。世話人の目が、「監視」の目に近づく・・・あってはならないのであるが・・・

分別収集が始まって約10年・・・・世代も変わった。新しい住民も増えた。住民の入れ替わりもある。特に、都会から移住してきた方々には、分別の種類の多い我が街の分別にはなじめないものを持っている。違反も、既住民との交流が少ない。積極的な説明が不足。あるいは、定期的な、親切な説明が欠如しているのだが、既住民は、行政から配布される「広報」を読めと・・・冷たい。

隣組があっても、既に無用の長物になって久しい。「違反・廃棄物」は、世話人の負担を増すのだが、一年間の辛抱の代償としているので、全くの進歩がないのである。

「広報は・・・」;誰が読むものか!
ならば・・・「回覧板は・・・・」;見向きもしない!
・・・・とのつれない議論・・・これでは、言葉は飛び交っても対話にはならない・・・。

「主張を聞く会」・・・・余程、市民感覚の鋭い人が、お互いの主張に耳を傾けながら議論・質疑応答をするのでなければ、単なる「念仏」に終わるのではないのかな・・・・囲み記事を読みながら、貧しい感想しかないのが悲しい。

「意見や利害が対立する人と合意する力」が「自治の力」であるとの言葉を紹介して記事は終わるが、市民同士の対話が成らないで、議員や首長との対話が可能なのだろうか・・・私は首を傾ける。が、希望は失わないつもりである。