逃げる文化・・・・

NHKの番組から・・・・日本の国土は、地球の「0.3%」
火山は地球上の火山の「10%」

そして、地震は、世界の「20%」・・・・だとか。結論として、日本人は、あるいはこの列島に住む人間は、「逃げる文化」に長けていなければならない・・・のだそうだ。納得。

今回の東日本大地震・・・地震の被害は少ないのではないか。地域に依っては、全く地震の被害を見せていないのではないかと、私は思う。福島の「原発」も、地震の被害なのか、津波の被害なのか・・・もう明確にされてもいい頃だろう。それによって、今後の原発建設にも影響が異なって来るだろうし、電源関係の設備的考察にも影響するだろうから・・・・。

火山については、島原の普賢岳で多くの犠牲者を出し、そして多くの事を学んだ。最近の霧島山系・新燃え岳の噴火でも、落ち着いて対応が出来たし、抜け駆けで被害に遭った話も聞かない。皆無だとは、私は思わないが、情報隠蔽の可能の範囲なのだろう。まだ、入山禁止だろうから、適時な情報が少なくなると、あるいは、被害者がでるかも知れない・・・が、それは「自損」と考えるべきだが、mediaが、行政攻撃の材料にするかもしれない・・・・。

今回も、逃げられずに被災し、犠牲になった方の話が、ぽつりぽつりと伝わってくる。最後まで、住民に避難を呼びかけるアナウンスを続けて行方不明になった女性職員。報道の映像の中にも、彼女のアナウンスが聞こえるのが悲しい。同じ部屋にいた同僚は、壁の抜けた鉄骨にしがみついて助かったと云うが、彼女は、津波の水勢に流されたのだろう。運の悪さも手伝っている様に、私には感じられる。

また、未避難の家族・人に連絡をするために、波の方向に引き返し、還らなかった消防団。一波が過ぎた防潮堤の上で、二波を観察していて、波にさらわれた人・・・もう、そこには、「運」以外の何物も考えられない。人智を、人事を超えたものである。

我々の祖先は、高地から、高台から平地に、海岸に降りてきた民族・原住民である。そして、高地から、高台から降りてくる時に、現在に至る「文化」を手に入れたのである。治水、干拓、開墾・・・この日本列島には「自然」は存在しない。人跡の稀な部分を「自然」と思いこんでいるだけである。山も川も、日常的な、人間の管理が、その用としての山を維持し、川を維持しているのである。従って、自然の脅威が破戒するに、簡単である。

前を流れる川を見て安心し、広がる田畑に自身を持ち、高台に立って、眼下に広がる街並みを美しいと思う。全てが、自然の猛威の前には、儚い存在であるのに・・・・。津波が、全てを洗い流す光景に、多くの人が、「無情」を感じたのではないか・・・五木寛之は、「他力」を勧める。つまり、頑張らない・・・ことである。流されたくなかったら、流れの及ばない所に生き、流される覚悟があれば、足元を流れるせせらぎを楽しめば良い・・・・

「房総の里」を散策したことがある。広い古墳群があったり、古い街並みが作られていたり、広い空間を楽しむことが出来る。可なりな内陸部と云うのに、古民家の、軒下には、小舟が釣り下がっていた。案内人が居なかったので詳しい話は聞けなかったが、通り掛った人が、かつては・・・どのくらい遡行するのか不明だが・・・度々大水に見舞われたのだと云う。あるいは、今回の様な大津波の体験を、この房総の里の住民はしているのではなかろうか・・・東京湾自身が、古来から、陸地になったり、海になったり、その地質学的変化は激しかったのだと、木更津の博物館の説明に読んで、納得出来た。ここにも、「逃げる文化」の片鱗が残っていたことになる。

逃げる文化の陰には、逃げてくる人々を迎える文化も、setとして存在しなければならない。自助、共助・・・そんなethosの生れる所以だろう。我儘も許される。しかし、それは、仲間を助けず、自らは助けを求めない・・・暗黙の了解を前提とするものである。それを忘れた時、他人を恨みが生れる。現代人のtraumaの根源ではないのか・・・・自戒する所である。