原発・・・フランスの場合・・・・

「フランスの原発は、事故の際に原発から20キロ圏内の住民の避難rootや、通行止めの地点を含む想定図を準備している。住民は安定ヨウ素剤を常時備蓄しており、時々住民も参加する避難訓練を行う。原発は安全だが、事故は起こり得る。これも我々の原則だ・・・・」;仏・放射線防護原子力安全研究所・所長;ジャック・ルピサール氏のcommentである。

今回事故は、津波が、原発の電源を奪い、原子炉が冷却機能を失ったことから発生している・・・フランスの当局者は、津波の及ぶところに補助電源を設置した数十年前のmissが原因だと指摘している。が、日本のmediaも業界も、この点に触れようとしちないのではないか・・・私のnewsの読み方が悪いのか、mediaの伝え方が悪いのか・・・しかし、今日まで、mediaも論じることなく、地方行政も無関心だったことは否めない。また、原発反対派も、危険を訴えていても、その論調は至って政治的・・・反自民的・・・に堕していて、その本質を論じようとはしていなかった隘路は隠し得ないだろう。

つまり、国民全体が、「原発」に「もの」としての価値しか与えず、無関心を装って来たと云う事である。つまり、「お上」意識のなせるものであるかも知れない。住民の「お上」とは、知事であり、町長であり、村長であるのだが、彼等もまた、住民が、原発の危険性に触れないことで、その「椅子」に安住していたのではないか。国家、政府、なかんずく菅総理に厳しい言葉を投げつけても、それが効果的でなく、impactを持たない理由もそこにある。東電にしてみても、「こんなこともあるから、お金を落としてきたのではないか・・・」と、内心では呟いているのだろう。

それに便乗したmediaもまた、ジャック・ルピサールの論調を踏まえた(せめて)議論が不可能な醜態をさらしているのである。津波が大きかった・・・果たして、想定内の津波なら万全だったのか・・・怪しいのではないか・・・その検証すらmediaはしない。政府、自治体、東電、そしてmedia・・・一蓮托生で、その危険性を隠蔽して来た責任があるのだが・・・批判勢力すらが、黙して語らず・・・既存の原発が、その対策に大わらわであることに、多少は救われていることで、満足するしかないのだろうか・・・悲しいことだが・・・。

「我々の原則は、観測数値に頼らず、事故の想定モデルから先行きを予測すると云うものだ。観測データに頼ると対応が遅れる。それは、大学研究者のapproachだ。冷却機能喪失の情報があれば、今後何が起こるかの予測に実測値はない。

これは文化の相違だと思う・・・3・11の日に、東京在住の同胞に、関西移住を進言した理由でもあったと、ジャック・ルピサール氏は語る。

我がmediaは、フランス政府の、この行動を、あたかも理不尽であるが如くに報じたのである。全くの「井の中のかわず」なのである。

今回事故から学ぶべきものは・・・こぞってcommunityを維持して避難したい・・・等と言っている場合か!・・・政府を避難しても、東電を糾弾してもよい・・・しかし、今、することではないだろう。「命あっても物だね」と云う箴言もある。被災地の国民も、それを遠くに眺める国民も、等しく、ジャック・ルピサールの言葉をかみしめるべきではないか・・・井戸の中に首を縮めているのではなくて・・・。