人生の形・・・・悲しみと感謝と・・・・

先日の新聞には、一人の男性が救助した、母子・3人の笑顔があった。しかし、件の男性は、力尽きて妻の目の前で波にのまれた。遺された妻は、この母子を家族と思って、これからも、この地に生きて行くらしい。この夫にして、この妻あり・・・人間とは、生きているだけが価値ではない・・・不謹慎だろうか、こんなことを思うのは・・・・。人間は、安穏に暮らしている様で、多くの人の犠牲を受けているのだろうと思う。

今回事故を受けて「原発」の安全性も格段に向上するだろう・・・少なくとも、この事故・原発が安全に保全される様になれば、それ以後に生きる人々は、そこに失われた犠牲の上に、己の人生を紡ぐことになる。また、新しい原発の形が誕生すれば、それは、また、人類の曙になるのだろう。それは、私が、先祖の知恵の上に、日々を安穏に生きていることに変わらない。
昨日の新聞には、地域の消防団員として被災地の前線にあった男性が、その留守宅に両親・妻・娘を失った、慙愧に堪え得ない犠牲である。何故に・・・一度に・・・と、神をも恨みたくなる。我々は、こんな悲劇にも遭遇しなければならないのだろう。言葉はない・・・!。それでも、この男性・・・この地に留まって生きていくと云う。「死者の死を悲しむのは間違っている。亡くなった人と過ごせた時間に感謝すべきである・・・」とは、ガンジーだったか・・・。命をあたえてくらた両親を失い、愛する妻を失い、最愛の希望であって娘を失った悲しみは、それを慰める言葉はない。恐らく、彼に掛ける言葉を持たないだろう。


一瞬の差で命を拾った人。一瞬の差で、犠牲になった人・・・恐らく、その一つ一つに「運」が絡むのだろうと、私は思う。この日の、この時間・・・普通の日だった、普通の時間だった・・・しかし、瞬間の後に残ったものは、全てを奪った。

75年の人生は、「あおの時、あの瞬間・・・」を思うわないでもない。98歳で逝った父も、人間は「運」だと、その生涯を振り返っていた。そして、幸せは、妻、子供が、俺より先に死ななかったことだとも・・・1945年8月13日、豆満江の原隊復帰の途中でソ連戦闘機の銃撃を受け、シベリアへの道が消えた。北朝鮮興南の港から出航した、手漕ぎ・帆かけの小舟が漂った日本海は連日の凪の7日間だった。しかし、もう安全な、釜山から仙崎の引き揚げ客船は、同じ日本海のMay・stormに弄ばれた・・・これが逆だったら、今日の私はない。日本海の鱶の腹の中に収まっ手いたであろう。
父は養子だった。しかし、母の実家は、その財産の全てを、父の赴任していた朝鮮に移していた。もし、母方の祖母が所有していた財産が健在だったら、私は、日鉄二瀬で成長し、炭鉱に就職していた可能性は高い。筑豊の中規模炭鉱が群れる町に成長したが為に、炭鉱の衰退を、他よりも早めに体感・・・炭鉱への就職は、その選択肢にはなかった。炭鉱に勤めていれば、10年を経ずして失職していたであろう。そんな過酷な人生に突入していたら、現在の安穏はない・・・・父の遺した「運」と云う言葉が、今の私には思う。

一人の男性に、水中から引き揚げられた少年と少女・・・・その「運」の良さを実感する日もあるだろう。その「運」を与えて呉れた人々に感謝を忘れない、これからの人生であって欲しいと思う。
父母を失い、妻と娘を失った男性・・・ニーチェを借りれば、その日々に感謝しながら、その「永劫回帰」を信じて今後の人生を送っていただきたいと、思う。私を励まして欲しいと思う。また、その姿が、多くの、くじけそうになる人々を支えることになると思うから・・・。

大震災の悲劇・・・でも、多くの事を教えてくれる・・・・学ぶつもりなら・・・。悲しむのも人生。多くのことを教えてくれた故人に感謝するのも人生。己だけの日々でないことを、しっかりと自覚したいと思う・・・。