三歩進んで二歩下がる・・・

チェルノブイリ・・・すっかり忘れられていた。あの事故から25年も経つとは・・・。福島の件の原発が、操業を開始して40年。本来30年で停止する予定だった。ならば・・・チェルノブイリの事故を真摯に受け止めて、一度、足を止めることもできたはずだが・・・しかし、今回事故は、冷却水が止まった事が、直接的には事故なのである。

地震を受けて、原発の原子炉は、その活動を停止したのである。「火を止めれば・・・安全」。関係者の脳の中は、その程度のものだったのだろう。冷却水が止まらなければ、そこで全てが終わっていた。しかし、終わらなかったのは、ポンプを動かす電源装置が破戒されたからである。安全保安員も東電も、何となく、説明に締りがないのは、事故の原因が、本質的な原発にあるのではないとの、認識があるからだろうと、私は思う。

設備の故障、事故は、設備本体の事故でない限り、設備・操業者の責任ではない。給油装置が止まった・・・それは給油装置の故障であり、設備本体は、単なる「停止」なのである。しかし、原子炉が、その燃料の発熱が終わらない限り、設備は停止しても、その燃料の燃焼が終わったことにはならない・・・難しさがある。本体から外した燃料棒ですら、冷却を続けなければならない・・・私たち部外者・非化科学者が始めて知ったことである。しかし、技術とはそんなものである。事故が生じなければ、詳細は分からない。詳細を分かろうとはしないものである。クルマを運転する人が、クルマの構造について、その安全性からは無知であることが多いのも、同じである。

先日、6人の小学生を死なせた重機・・・世間は、運転手を責めるだけだが、私は、クルマが如何に不安全なものか、危険に満ちたものであるかを、その際に再認識すべきではないかと思う。しかし、この話題に乗って来るdriverは皆無である。運転の基本だ・・・安全運転は・・・恐らく、全てのdriverが、そう言い続けて、在る人は事故に命を失うのだろう。

新幹線の、運転者に関する安全装置は、二重、三重になっていると云う。まず、ハンドルから手が離れれば、電車は停止する。また、control・centerからも停止させることが出来る・・・等々。

件の重機も、あるいは一般のクルマも、運転手が眠気に負けてハンドルにうつぶせになれば、エンジンは自動的に停止すべきではないか。また、acceleratorとbrakeの踏み違い・・・全く解決の意欲が見られない。まるで、死にたくない人は、クルマを運転するな・・・と、言っている様である。


チェルノブイリは、多分に政治的な事故であり、影響の拡大である。当時、ソ連政府は、事故の隠ぺいにだけ、その政治力を使った。事故に当たった作業者、技術者の命には一考だにしなかった。その反省は、現在、中国に継承されれているだろうか・・・私は「いる・・」と思いたいのだが、北朝鮮は如何か・・・当時の被害者で、現在、放射能被害者の治療の研究に当たるロシアの医師は、福島は、当時のチェルノブイリとは全く様相がちがうと、福島を評価する。放射能の拡散も、被害も格段に小さいということだろう・・・・現に、死者は、今も報告されていない。キャベツを心配して自殺した百姓はいたが・・・・。

原子力発電・・・これは正体不明の自然破壊を恐れての、勇み足である。日本でも、一酸化炭素;25%言を唱えた宰相が居て、その発言は今も生きている・・・・東電の、当面の対策は「火力発電所」の増設である。25%を世界に向けて発言した、当時の宰相には、反省の色の微塵もない。


また、「水素爆発」・・・・これは、今回の最大の現象だった。恐らく誰もが予想もしていなかったことである。勿論、後追いで考えれば、発生しても不思議ではないが、人間の知恵とはそんなものだろう。転ぶかもしれないと思いながら歩くのは余程の障害者か高齢者であろう。転んでみて・・・俺も転ぶのだと気が付く・・・水素爆発とは、そんな爆発だった。

加えて、その爆発の威力である。私も、鉄鋼の現場で何度か経験したことがある。これが「水素爆発か・・・」と理解したのは、何度か体験した後だった・・・全く、水素爆発を考慮しない建物は弱かった・・・あるいは、強かったら、もっと大きな被害が生じていたかも知れない・・・それは、神のみが知ることである。

また、爆発に依る建物被害が、その作業を困難にした・・・瓦礫の始末・・・故障・事故を考慮した設備の要件は、補修の利便性である。この隘路を、設計図段階で発見し、指摘して、構造を修正することは、非常に難しい。天災でもいないかぎり、不可能に近い。


その意味では、今回の福島原発の事故は、その後の対応を含めて、世界に色々なことを教え、問題点を提出したことになる。恐らく、本体の構造よりも、冷却水、あるいは、建屋、基礎等の付帯設備についての、メンテナンス、故障・事故対応の利便性に、多くの課題を提示したことになる。

今、騒がれている「農業」問題は、殆ど些細な問題である。個々人の誇り・名誉を除けば、殆ど経済的な補償で解決できるだろう。数年後には、500万人の人口流出が予想されていた地域である。また、この事故で、世界が一つにまとまれば、それは、外交的平和の貢献でもある。食料を無暗に自給する必要もない・・・津波に現れた農地は公園化されるだろうし、酪農は、他の地域に移転するか、廃業にするか・・・いずれでも、それほどの問題ではないだろう。漁業は、時間を掛ければ復活する・・・・今、農民の前に引き出されて、悪口雑言をあびせられている東電の社員も、いずれ、担当が変われば、この災難からは逃れられる・・・勿論、それまでに、何人かの犠牲者(自殺者)が出ることは避けられないだろうが・・・農業、酪農に関しては、次のステップがあるとしたら、それは、当事者の農業継続か、否かの決意だけであろう。

むしろ私は、「迷惑施設」に支払われていた、地方行政への財政的交付金の消滅が、この地域の経済力を低下させるであろうことへの懸念である。国家への交付金の要請も、期待は持てないであろう。色々な産業も、脱・東北の機運に流されるだろうし、原発の消滅は、そのまま失業率の増加に結び付く・・・もちろん、今回の被災地への影響も、色々な形で具現化される「増税」で、避けられない。そんな環境で、国家に交付金の請求が出来るか、大幅な増額が、被災地というだけで許されるか・・・時間の経過は、喉元の熱さを忘れさせるものであることも、今から考えておくべきだろう。
原発行政は、二歩も三歩も後退する。今回被災地の経済的基盤も、同じ様に後退するだろう。「故郷」に執着して、その貧しさに埋没するのか、早めの決断も必要かもしれない・・・その意味では、戦後の焼け跡以上の被災地の苦しみが、密かに始まっているのではないか・・・被災者地震が、理解すべきことではあるが・・・。