自伝の序章として・・・・命・三兄弟・・・過去ー現在ー未来

「過去の現在は“想起”であり、現在の現在は“今”であり、未来の現在は“直感”である・・・とは、哲学者・中島義道のフレーズである。
これを私は、「命の三兄弟」と名付けたい。何故なら、「過去の現在」とは、老いの「命」であり、「現在の現在」とは、壮年の「命」であり、「未来の現在」は、少年の「命」だと思うからである。
老いの想起は、我が生れし時より、延々と教に至るのだが、その生れし時の更に過去に、繋がり父と母に至る「命」の繋ぐものであることに、思い至る。そして、現在の現在は、瞬間に来たり、瞬間に去る。其処には、瞬間の「自己同一性」を疑う時間さえ感じることはない。その一瞬、一瞬の継続が一本の糸として自覚された時に、過去を想起する動機が生れ、懐旧の情が生じ・・・あるいは、時に憎しみが蘇える。しかし、未来の現在に、老いが固執すれば、それは「不安」であり、時に「恐怖」でしかない。しかし、少年の未来の現在である直感は、青山の頂きにかかる白い雲である・・・司馬遼太郎が描いた「明治の群像」そのものであろう。

世阿弥は、「初心忘るるべからず・・・」を、「是非の初心」、「時々の初心」、そして「老いの初心」に分けて論じた。「是非の初心」は、若者の「青雲の志」であろうし、「時々の初心」とは、時に挑戦し、時に反省し、あるいは雰囲気して、その都度新たにする初心でなければならない。個人のvitalityとは、この「初心」のことを言うのだろうと、私は考える。
そして「老いの初心」とは・・・これは難しい。世阿弥は・・・「老いが舞う時、そこに花が咲く・・・」、そんな初心を言っていると、私は読みとるのだが、果たして可能なのだろうか。少なくとも、「〜でなければならない」と言うものではなさそうである。少なくとも、未来の現在に憧れながら、過去の現在に思いをはせながら、現在の現在、つまり「今」を、時々の初心を大事に老いに至った人だけに許されるものなのだろうと、75歳の己を恥じるだけである。

1936年に、現・北朝鮮興南に生を受け、1945年・9歳が終戦・・・当然とした日常が、異常と言う日常に化し、平穏な戦後の北朝鮮で、不安らしきものも感じる事なく、ひと冬を過ごし、1946年(昭和21年)・5月の新月に、興南の港から、手漕ぎ・帆かけのメンタイ舟で、脱出、38度線直下の注文津に上陸、アメリカ軍に救出され、山口県の仙崎に辿りついた。

思えば、私の青雲の志は・・・と、問われれば、向学の志はなく、食事の後の、父と母の会話の中に登場する「東大」と言うphraseの意味すら知ろうとはしていなかったのである。高等小学校卒、母は高等女学校卒・・・植民地の会社であったが故に、それなりの地位にあった父だが、それなりの限界は感じていたのであろう。8畳を書斎(立派な社宅だった)として、家にある時は、常に書斎で何やら読んでいた・・・後に、「司法書士」を志していたと、母の説明があった。両親の学歴complex・・・私の9歳までの時間が、決して明るい記憶になっていない所以でもある。敗戦は、私の少年時代を開放してくれたものでもあったのである。

戦後は、養子の父の故郷に身を寄せざるを得なかった為に、母や祖母には過酷な戦後だった。日本での財産の全てを清算して植民地に渡った「引揚者」の末路は厳しかった。戦中は、それなりに、配偶者の家族への配慮〜経済的援助や、季節の贈り物等々〜は、何の価値もなかった。只々・・・厄介物の帰国だったのである。
特に、父の家族と、母の家族は、結婚当時は、大きな格差があり、母の祖母の豊かさ故に、私も現在があるのだが・・・リュック一つで、無一文で帰国した我が家族は、父すらも、半分は他所者扱いだった。辛うじて、父の男兄弟の心根が優しかったこともあって、父の母(母には姑)の目を盗んで、陰陽の援助があって、立ち直りは早かった・・・勿論、ヤミ商売の成功も大きかったが・・・。

私の「人格」は、戦中末期と、戦後の生活環境の激変、そして、引揚後に、身に感じる大人の世界の汚さ、辛さの中で、醸成されたものである。「ものは盗むもの」、「人は騙すもの」、「笑顔は我が身を助ける」・・・等々。

今、若い人が、他人とのcommunicationに悩むとか・・・「平和、平穏、安穏・・・」とは、そんなものだろうと思う。人付き合いも、相手を騙す必要がなければ、お付き合いに工夫はいらない。相手の親切に期待する必要がなければ、特段に親切を心がける必要もない。すべて、自己責任で突き放しても、その因果が、「私」に反逆することもない。ただ、少々寂しいだけである。
過去を想起すれば、寂しかった過去の日々が蘇えるだろうが、其処に生きた己の姿が愛おしくなるだろう・・・誰に語る必要もなくなれば、寂しさも消えるだろう。「過去の現在」は、まんざら捨てたものではないはず・・・現在の現在を苦しんだご褒美でもあるだろう。もう未来の現在に心を馳せる必要もなくなった「年齢」の役徳でもあるだろう。

幾つかの「自伝」の中に、己を探してみたい・・・自伝seriesの始まりである。