自伝―1;脱出・・・興南から注文津

昭和21年5月・新月・・・興南港埠頭を、20人程の客(?)を乗せて、手漕ぎ・帆かけのメンタイ舟は離れた。一日の「脱出劇」が終わったのか、始まったのか・・・
記憶は、数日前に遡る・・・・
昭和45年8月13日に、父は召集された。その数日前、その「赤紙」を手に、父と母の深刻な顔があり、12日に、近くの駅から出征した。数年前の出征〜教育入隊〜の時は、大勢の同僚や、朝鮮人青年の部下の、駅頭の見送りが賑やかだった。成人になった知った当時の世相、戦争の実像に依ると、敗色濃い戦況の中で、出世風景すらが「軍事秘密」にされていたのである。駅頭には、母と祖母、そして、9歳の私、7歳の妹、2歳の弟は母の背にあった。軍歌もなし、幟ももちろんなし・・・寂しいと言えば、寂しい出世だった。こんな、寂しい出世の光景は、日本本土、植民地の各地で見られた光景であろうが、正に、「死地」への一歩だったのである。恐らく、私の母も祖母も、無事な帰還を望みながらも、その期待は儚いものであったのだろうと思う。
父は、健気にも、「日本は勝つから、落ち着いて待て・・・」と言い残したと言う。母は、この一言を、読書人を任ずる父の戯言・・・と、事あるごとに揶揄していたが・・・この時、2時間前の列車で出発した同僚は、シベリアまで送られ、還らぬ人となったらしい。当時の母に「藤原てい」程の力があったか、否か・・・父は、朝鮮半島豆満江へと北上する列車が、ソ連戦闘機の機銃照射を受け、逃げまどう中に終戦となり、現地解散・・・帰宅した。17日になっていた。既に、朝鮮窒素興南工場は、朝鮮人の経営に移り、失職。毎日、父の、八畳もある書斎で、蓄音機を鳴らして楽しむ数日が続いた。
8月15日の夕刻、日本人・社宅街(北柳亭里)・・・その社員社宅と準社員社宅(2階建て・パート)を隔てる、大通り〜恐らく、朝鮮半島を貫通するメイン道路だったのだろう〜に、突然、朝鮮人の集団が現れ群舞が始まった。手には、色々な農具が握られていた・・・メロディーはアリランだったかトラジだったか・・・。
日常、「お祭り」の経験のない子供の私には珍しいものだった。よちよち歩く弟の手を引いて、妹と観に行った・・・と言っても、家からは数十メートル・・・孫達の姿がないのに気が付いた祖母が、大声を上げて迎えに来た・・・特段に、朝鮮人が暴れることもなく、日本人に危害を加えることもなく・・・朝鮮人の群衆は去った。ソ連軍が進駐して来たのは、その一ヶ月程の後だったと記憶する・・・。
その前に、親日的な朝鮮人の医師や教師、警察官の姿が、私達の周りから消えていた・・・リンチで、殺されたのだろうか・・・母と祖母が心配していたが・・・真偽の程は分からない。しかし、子供の世界は平穏そのものだった。たわわに実った田圃にいなごを取って遊び、小川の傍で、トンボを追っていた・・・通り掛かりの朝鮮人のおじさんたちから、「みんな(全部)日本に持ってかえるなよ・・・」等と冷やかされて・・・。
学校は夏休み・・・そして、いつの間にか消滅していた。各学年、男子;1クラス、女子;1クラスの小学校だったが、教室は、半分ほどが空席だった。父親が戦死した子の机に立つ「日の丸」も、何時の間にかなくなっていた。また、男の先生の姿も消えていた。8月15日が最後の登校日だったのだろうか・・・もう、二学期が始まっていたのだろうか。登校した学校には、日本の兵隊さんが、運動場一杯に寝転がっていた。やがて、シベリアに送られる運命がまっていたのだが・・・。
わが家に、ソ連兵(ロスケ)が踏み込んだのは、もう9月になっていた頃だったか、蓄音機がなくなった。もう数年間も家族の下に還らない、優れて獰猛な部隊だったらしく・・・抵抗するなとのお達しも出ていたのだと、晩年の父が語っていた。腕時計がまず狙われるのだが、止まっていると、動かし方が分からず、諦めたとか・・・日本人の多くが、ロスケを人間扱いしていなかったのだと、ロスケは、正に野蛮人だった・・・と、私は懐古する。
しかし、その武装には、子供でも驚いた。先ず兵隊が全員トラックに乗っていた事。日本兵がトラックに乗っているのを見た事もないのだから・・・全員が武器を持っていた。程なく、マンドリンと言われる銃の威力を目の前にする・・・路上の犬が、形を全く残さずに、殺された。日本人へのdemonstrationだったのだろうか・・・しかし、将校の数が増えると、兵隊の素行も治まったと・・・日本人に対する朝鮮人の暴力が殆どなかったのは、治安がソ連の手にあったからだと・・これも、父が後年に述懐していたことである。しかし、「女狩り」は、最後まで止まなかったのではないか・・・

10月に、朝鮮人社宅と日本人社宅の交換が行われ、そこで初めて「植民地」の実態に触れることになるが、それを語るのは、後日とする。

父が、朝鮮人経営の会社(元・朝鮮窒素)から、再雇用されて、かつての「雇員社宅」を与えられ、「食」も配給されることになり、虜囚とは言え、安心の生活が始まった。
閑話休題・・・これが、戦中の父と部下の朝鮮人青年との関係を知らない多くの人々羨望を買い・・・最後まで、父のトラウマになった。父の大事にしていた箴言は、「人間万事塞翁が馬」であり、その中で、「絶対に苛めてはならない・・・」が、父のdisciplineでもあった。「差別は立場に依って避けられない。しかし、苛めは、その人間性と決意で避けられる・・・」と、社会人となる私への餞別の言葉でもあった・・・この教えだけは、大事にした心算である。

第二種国民兵・・・つまりは、「丙種・兵」である。5尺足らずの小男。ど近眼。そして、吃音・・・何を取ってもつまらない男だが、内にある種の意地悪さを秘めながら、不器用ではあっても、優柔不断な父は、正真正銘の悪人と、私の目には映っていた。運動能力は殆どないが、色々なゲームの世話役は引き受けていた様だし、女遊びはしないが、女性にはもてていた様子・・・朝鮮人がリンチに掛けようと追い回す在郷軍人の夫婦を逃がしたのが、一寸した自慢だった様だが、その舞台は興南港の傍の「花街」だったと、愉しそうに懐古していた。この時の手法が、我が家族の「脱出」に生きたのである。

脱出の日の朝・・・私が、父の働く事務所に「弁当」を届ける・・・実は、もう一ヶ月も前からこの日に備えて、この習慣を続けていた・・・そして、脱出のメンバーからの「決行」を伝える。祖母は、ゆで上げた「毛蟹」を隣りの保安隊の詰め所に届けて機嫌を取り、そのまま、集合場所に直行・・・次いで、弟を背負った母が、その後ろ姿を追い、その後ろ姿を妹が追う・・・そして、その後ろを私が追っていたのだが、突然に妹の姿が消えた・・・場所は、港近くの花街である。妹が来ないので大騒ぎになったが、程なく路地で見つかった・・・「ぼやっとするな・・・」。叱られたのは私・・・常日ごろから「愚鈍」と言われていた私である。こんな時にも落ち込むことはない。

作家・五木寛之のエッセイには、妹を連れては38度線を越すのが無理だ・・・との判断を、父親、弟の3人の男が決意し、妹(3歳)を置き去りにする場が描かれている。結局、道に迷った3人が、一回りして、ちょこなんと一人、父、二人の兄を、無心に待つ妹に再会・・・決意も新たに、4人揃って38度線を超える覚悟を決める。彼の書くものの中に、妹は登場しない(私の目にしたものでは・・・)のも、こんな事があったからだろうか・・・弟の死を、五木寛之は、色々な所に嘆いているのだが・・・。恐らく、満蒙に朝鮮半島の彼方此方に存在した光景だろう・・・私は想像する。

そして、冒頭の、興南港・埠頭の光景になる。板子を渡って船尾から船室に入る。漁ったメンタイを納める舟底である。船頭が、静かに「艪」を漕ぎ、舟は「日本海」の漕ぎだした。新月・・・板子の下には、真黒な海が波打っていた。海上は、静かだった記憶・・・初めて舟に乗ったのだが、恐怖はなかった。もっと大きな恐怖が心中に満ちていたからだろう。海は静かだった・・・三日で注文津〜先日、日本人女性が行方不明になった場所〜に上陸ッできるはずだった・・・が、海は連日の「凪」・・・結局7日を要した。
この舟・・・私は、父のかつての部下が手配したのだろう・・・と思っていたが、案に相違して、「北朝鮮・保安隊」を買収して手に入れたものだと・・・晩年の父が語っていた。治安を進駐してきたソ連軍が行っていた為に、保安隊は暇・・・給料も僅かなので、こんな商売で日々の生活を支えていたらしい。

途中で、水がなくなっても、陸に近付くことは禁物・・・何故なら、そこには、ソ連軍の警備の目があって、発見されれば、殆どその場で銃殺だったろう・・・船中で、嬰児が息を引き取った・・・小さな岩場の様な小島の砂の中に埋められた・・・私も、埋葬の穴掘りの手伝いだったのだろうか、3日ぶりの陸地が懐かしかった記憶が蘇える・・・。

話は飛ぶが・・・釜山から山口県・仙崎への客船は、釜山港を出た途端に、大時化に襲われた・・・数千トンの客船の舳先が波を潜り、山を登る様に上昇した・・・・もし、あの小船で、あの時化にあっていたら・・・と、晩年の父に問うた事がある・・・・父の答えは・・・「運だ!」の一言。
実は、豆満江の原隊復帰の列車が、ソ連戦闘機に襲われた・・・線路を逃げる父達に機銃掃射が加えられた・・・機銃掃射の弾丸は、一メートル間隔程で地上に炸裂したと言う。当るか、当らないか・・・これも、「運」だったと・・・
98歳で身罷った父・・・これも「運」だな・・・旅立つ前の一言だった。

注文津の小さな砂浜には、付近の朝鮮人が私達の上陸を待っていた様に群がってきた。「金目のものは、米軍に取り上げられるから、ここで、食べ物と交換したほうがいい・・・」と、言って、小さな「おにぎり」と交換させられたと、後に母が悔しそうに、何がしかのものに未練を残していた。そして、船頭は、駆け付けた米軍に逮捕され、私達は、港の基地まで、小一時間の山道を歩かせられ、停泊していたLSTに収容された。