アレルギー

他のブログからの転載・・・・

避難所の食事・・・アレルギーのある方、特に子供の食事に苦労される親御さんはどうするのだろう・・・自身が、焼け跡世代のくせに、青魚の生にアレルギーを持っていて、すし屋で軽蔑されるので、災害の当初は気になったものだが、特段に報道も無いので、volunteerの方々も心得ているのだな・・・と、安心していたが・・・あるいは、大都会と違って、東日本、東北ではアレルギーを持つ方もすくないのかもとの考えていた・・・やはり、あったのだ!

今朝のnews・・・Americaの日系二世のgroupが、アレルギーを持った方の為に、大量の食べ物を救援物資として届けたと・・・報道されている。やはり、これが文化の違いか、文明の持つethosなのか・・・「何が必要か・・・?」と考える時に、モノクロ的に考えてしまい、異を唱えると、排除されかねない日本との違いなのだろう。あるいは、多民族、多人種(禁止後か?)の持つ「人道的」な感覚なのだと思う。

我々・・・少なくとも日本人は・・・国民・民族全体が、そのままallergy体質なのではないか。まとまりやすい・・・その半面で、「異」を排除する・・・違っていると云う理由で・・・免疫の働き過ぎでもあるのだろうが、今日に至る歴史の中で、教育されていない、あるいは、個々の学びの習慣に欠落しているとも言うべきだろう。

今回の震災で、日本人の素晴らしさが世界に報道されている・・・・しかし、その底辺で、だからこそ不満、要求が口に出せない隘路が隠れてしまっているのではないか。少数の苦しみで、表面を飾る・・・卑しいethosだが・・・一人ひとりが、自身の胸の中に、静かに煩悶を繰り返すべきかも知れない。

この種の問題は、「対象」を探すが・・・「摘発」になりかねない。また、他人の思いやりを受け入れることが・・・「甘え」と言われかねない。密かな「こころ遣い」が、お節介になりかねない。忖度が、忖度にならずに、秘密を暴き、当人を苦しめ、時に、当人の自発性に見せかけた「排除」になりかねない。公約数的な対応は不可能だろう・・・・と、私は思う。寧ろ、最小公倍数的に、思いやりや、親切が・・・・その姿を普遍化させる努力・・・・誰でも、誰かのお世話や、お節介に助けられているのだと云う「思想」の普及への努力を一人一人が、一人ひとりの教養とする努力の中で、僅かでも前進させることにしか、方法はないのだろう・・・私は、思う。

私も、私の箸の動きで、私のallergyを察知してくれる「鮨屋」の職人に出会うと嬉しい。見えない、人間の絆を感じる瞬間である。少しだけ、自分が優しくなる。それを感じる瞬間は、至福のときでもある。せめて、我儘を通して「幸せ」を感じる人間であってはならないと思う瞬間でもある。

被災地に、そんな小さな「善意」が広がれば・・・政治への掣肘にもなるのではないか・・・そんな事も、今朝は思った。