魔法のボタン・・・君は押すか、押さないか・・・。

NHk・東京工業大学・白熱教室(宇佐美誠教授)の7月3日の問題提起だった。
魔法のボタンとは・・・・・今、ボタンを押すと、当面の30年間は平穏な社会(現状)が持続する。しかし・・・である。300年後には、悲惨な世界が顕現する。・・・・君は押すか、押さないか・・・教室の学生に、教授が提起する問題である。
討論の全てがTVに展開するわけではないので、その代表的な発言が紹介される。特段に、視聴する私達に知識を授けようとする番組ではない。つまり、結論はないのだから、視聴している私達が、自由に考えて、自由に結論を、出したければ出せば・・・それが、当面の答えにでもなるのである。しかし、教室の雰囲気は「押さない」の方が多数だったのではないだろうか・・・私も「押さない」だろうな・・・感想である。

教室では、「原発」の事故には触れられなかった。恐らく、録画が、大震災以前だったのだろう・・・其処で、私が問題を提起する・・・・

問題提起・・・・
「魔法のボタン」を押せば、直ちに、全国の、いや世界中の「原発」が操業を停止する。勿論、不足の電力は「火力」で補われる・・・設備は、1,2年で、建設可能だろう。電力料金の料金値上げで、消費を抑えることも可能だろう。「原発反対論者」には、朗報だろう。再生エネルギーが、どの程度、電力の不足をカバーできるか、太陽光は、その可能性が大きいにしても、その発電量には限界があるだろうし、人口密集地では、それなりの個人の権利の制限も必要だろう。各家庭で、「発電〜消費」を完結させる事が可能なら、送電のロスもなくなるので、「原発6基」分が不要になると言う。
原発全廃論者には、これほどの朗報はない。万々歳・・・・である。

化石燃料の争奪
しかしである・・・・世界中の「原発」が停止、姿を消して300年・・・化石燃料の枯渇が目前に決定的にせまった、25、6世紀・・・追い詰められるのは、その時代にも存在する「貧国」である・・・しかし、「原発」の改善・発展に注がれるべきだったエネルギーが「核兵器」に注がれた結果として、「経済・貧国」と言えども数発の「核弾頭&ミサイル」は保有している。片や、火力発電に安穏に頼り続けた「自然エネルギー」への努力は、商業ベースに乗らない。特に、「経済貧国」が自力で電力を確保する手段は、化石燃料しかない。勢い、化石燃料の独占化、争奪戦が熾烈を極める。
軍事大国に、化石燃料に代わる、軍事的エネルギーが誕生するだろうか・・・例えば「量子エンジン」。ミサイルが、量子エネルギーで飛ぶ可能性がどの程度あるのか・・・私には、予想できない。ここでは、無理だとしておく。むしろ、放射線の内部被ばくの医療的技術の進歩の方に可能性を賭けたいと思う。

核戦争モード
極楽の30年から、300年・・・多分に「茹で蛙」になっていた世界は、その軍事力の全てを「化石燃料」の争奪・確保に向けるだろう。
原発」の開発に代わる、「核兵器・開発」に国策が傾注され、世界は、完全に「戦争モード」・・・もう「核兵器開発」に歯止めは効かないだろう。太平洋で、大西洋で、アフリカの砂漠で、中国大陸の砂漠で、ロシアのツンドラで、毎日、何発もの「核実験」が行われる・・・・化石燃料獲得戦争に敗色濃い弱小国は、乾坤一滴の戦争を仕掛けるチャンスを狙う・・・地球は、核戦争モードに覆われる。世界の何処かに、「キノコ雲」が日常になるだろう。勿論、放射能の測定も心配もいらない・・・心配が馬鹿げているからである。地球人は、相次ぎ「核兵器実験」の環境のなかで、放射能漬けになって生存しているのである。

「魔法のボタン」を押さなければ・・・臥薪嘗胆!
臥薪嘗胆・・・現状に耐えながら、知恵の限りを尽くして、「原発」の安全操業に努力を尽くし、技術を傾注し、時に「逃げ」、時に「非難」しながら、その安全についての対話を繰り返し、節電に努め、「原発」の拡大を抑制し、自然エネルギーに替えられるものは、勇断を以って実行し、自制をモットーに日々を生きて行く・・・人間が、自ら生みだす文明との共存することは、また隣人との共存であると、その理念をしっかりと確立していく、その覚悟が迫られる・・・300年後の惨劇を回避するために・・・。地球との共存も、研究が進めば夢ではないかもしれない。蓄電の技術が進めば、少なくとも家庭の電気に「原発」の必要はなくなるだろう。しかし、革命的エネルギー革命が必要な「物流・ロジスティック」の分野では、電気の必要性は避けられない・・・その必要性を再生エネルギーで確保し、化石燃料からの脱皮を図る技術には期待できるだろう・・・現・原発の力を利用して、原発の危険性からの脱皮の技術、そして、放射線・能に関わる技術的、医療的な技術の革新への努力を指向すべきだろう。あるいは、人間に課せられた最期の可能性への挑戦でもあるだろう・・・と、私は考える。安易にボタンを押して、易きについてはならない・・・私は思う。

問われているのは、300年後の見知らぬ人々・・・家系にある人であろうとも、なかろうとも・・・の為に、「今」を耐えられるのか・・・対話の文化が不足しているが故の苦労に・・・、その為の「自分」は、如何なる「自分」でなければならないのか・・・繰り返しになるが・・・ボタンを押すことで約束される「王道楽土」を諦めて、永遠に要請される努力で、300年後の地獄を回避する・・・そんな「意識・理念」が共有できるか・・・共有するためには方法を探り続けることが可能なのか・・・「原発反対」のプラカードを担いで街を練り歩くより、沈思黙考考える自分でありたいと、私は思う。

「押す・・・」も、「押さぬ・・・」も、君は、その結末を目にすることは出来ない。しかし、考えなければならない時代に遭遇した一人として、真の責任を問われているのである・・・さぁ・・・どうする!