スペースシャトルと原発と・・・・

135回の宇宙への旅・・・30年間の偉業をではある。大きな事故は2度・・・それでも、「中止」の声は少なかったのだろう。日本のメディアにも、アメリカのメディアにも、犠牲者への哀悼はあっても、「これで止めよう・・・」の世論は小さかったと、私は聞く。偉大な行事は、そして記録は、犠牲なくしては存在しないことをよく知る国民性・ethosであると、理解すべきなのだろう。

そして、一先ずのピリオッドは打つが、これで終わりではない・・・との公式発表。後は、民間企業が、この技術を継承して、さらなる発展・進展を期するのだと云う。技術的には、一先ずロシアに水を開けたと云う事なのかも知れない・・・何故なら、民間企業が、conceptに「使い捨て」を選ぶとは考えられないからである。つまり、飛び立った時の姿で帰還する・・・このconceptが揺るぐことはないだろうと、私は期待する。あくなき追求・・・これぞ文明の真髄であろう。

「コスト」、「危険」、「次世代」・・・が、三大KWであろうかと、私は想像する。つまり・・・・
①「コスト」・・・これは、民間の競争でしか期待できない。「官」主導の開発は、国民世論からしても、失敗は許されない。失敗が許されなければ、「コスト」の上昇は避けられない・・・つまり、「用心代」である。「転ばぬ先の杖」は、物事の「コスト」を求めるKWである。転んでも軽症ですませ、立ち直りの中に新しいideaが生れなければ、技術の進歩は期待できない・・・自明の理であろう。「コスト(パフォーマンス)」を下げながら、技術的進歩を期待する。それが、人類社会の実力である。神への信仰もそこから生まれる・・・・。
②「危険」・・・・危険のない所に進歩はない。夢もない。夢は実現しない・・・・諦めに満ちた時、人類社会は殺伐としたものなる。勿論、「愛」も生れない。そして「危険」には、犠牲が避けられない・・・己を危険に曝すことが、夢への近道である。そして、その「道」が見えるのも、「運命」的なものなのだろう。いや、運命が、その道を見せてくれる。進むか引くか・・・それは、決心である。傍からとやかく言うべきではないだろう。
我々のethosは、他人の「危険」について、余りにも干渉が多すぎる。「運命」に導かれて「危険」に近づこうとする他人に、俺の恐怖感で干渉する・・・足を引っ張る。「夢」を夢で終わらせて、日々を退屈に過ごし、己にチャンスを与えない社会を呪い、他人を羨望する・・・・「勇気なき者は去れ!・・・・勇気なきものは消えろ!」と云う発言が許されない、理解されない、寂しい社会なのである・・・・「二番ではいけないのですか・・・」と、こんな発言が公の場で、政治家の口から出る所以でもある。
③「次世代」・・・危険を犯さないから、挑戦しないから、「次世代」への期待も生れない。自らが生きた如く、べんべんだらだら・・・・退屈を我慢するのが人生だと思い、「孤独死」を恐れて、他人の「尻」を追い回し、他人の袖を掴んで離さない・・・そんなethosが生まれるのである。
孤独死であろうと、事故死であろうと、はたまた偶然がもたらした大往生であろうと、その死にざまで満足する死はない。人は死なないのである。「私は死んだ・・・」と、言った人が、人類の歴史の中に存在したのだろうか・・・・マンガの中ですら存在しないのである。悠々と、日々を尽くせばよいのである。価値あるものが残れば、後輩が後を考えてくれる、行動をしてくれる。誰も読まなかったブログ、誰にも聞いて貰えなかった言葉・・・それは、形を変えて世の中を「風」となった漂うだろう。そして、誰かの目に止まり、耳に達するかも知れない・・・また、形を変えて・・・。
「後は頼んだよ!」と、呟いて一人静かに死出の旅に出られたら、それは最高の幸せではないのか・・・。時に、苦しみもがく姿を、縁者の目に曝しながら、旅に出る・・・私には、おぞましい。

高価な代償を求める事故にも、アメリカ国民は、「魔法のボタン」を押さなかった。これで、数百年後の夢に、アメリカ国民は夢を託することができるのである。生れてくる新しい命への素晴らしいpresentを準備して、歴史への責任を果たしたのである。
恐らく、数百年後のスペースシャトル(仮称)は、「核エネルギー」で、宇宙を旅するのだろう。そして、人類に大きな貢献をするのだと思う。アメリカ人の、今日の勇気が、その夢を可能にした・・・今日は偉大な日の始まりだと、私は思う。

栄光あれアメリカ・・・・&・・・日本よ目覚めよ!・・・・
!!!!!!日本人よ・・・・
    「魔法のボタン」を押してはならぬ!!!!!