水難に思う・・・・Copy

東日本の水難ニュース・・・・私は、河川の側や、低地に住んだことがないし、今は、街を見下ろす高台に住んでいるので無縁のnewsなのだが・・・しかし、周りの友人たちは、「買い物難民」、「通院難民」になる事への恐怖を、しばしば語る。
人生70超年を生きて、最晩年の高々10年程度の苦痛は耐えなければ・・・或いは、死期が早まったとしても、長生きした分の払い戻しを要求されているだけではないのか・・・と、私は主張する。「貴方は、癌の再発を待っているだけだから・・・・呑気なものだ!」と、嫌味は言われるが、日々を怯えて生きるよりはいいだろう・・・・、私は、そう反論する。

そもそも「河川」を自然だと考える所に、この種の災害への手当が不十分になる原因があるのではないだろうか・・・・中国・古代の文献(甲骨文字に近い)には、川に堤防を作ってはならない、いわんや、それを嵩上げするのうは、愚中の愚の政治であると、述べた部分があるそうだ。

また、天山山脈の雪解け水が流れる砂漠の様な地方には、雪解け時期だけ、川幅・1キロにもなる川が数カ月出現するのだと云う。NHKシルクロードだったか・・・・ドキュメンタリーで知った。初めは、ちょろちょろとした流れであるが、ある程度の巾が生れると、その後の拡大は速い・・・・農民たちは、急いで水を誘導する水路を作り、畑の作付の準備をする・・・・半年もすれば、元の砂漠に戻る川である。しかし、農民の顔は明るい・・・自然が与えてくれる恵みであり、川を痛めつけない知恵が生きている証でもあるのである。

古人が折角治めた水の流れ・・・・川一杯の流れになることはない。古人の知恵の深さ、有史以前の人智に無関心な、時の時代人の欲が、川幅を狭め、こともあろうことか、「河川敷」と称して、その中に侵入する・・・・・・。結局、この様な人間の営みが、堤防の強度への無関心を生み、自然の流れの変化にも無頓着になり・・・・その防備の甘さを突かれて被害を拡大する。自然に保障を求めることはできないから・・・・その全ては「政治」の責任である。先祖伝来の、不届きな所業についての責任は誰も取ろうとしない。あるいは、簡単にはとれない。結局、祖先を含めた自らの欲望が惹起した災害を、他人の税金で補う・・・これが、我が国のインフラの実態である。

東京の一部には、100年に一度位の水を恐れて「商売」ができるものか・・・と、都の堤防構築を断って、移転しない高級料理店があると云う。勿論、損害を被った時には、自己責任が「家訓」なのだと云う。自然を壊しながら生きている我々である・・・それ位の覚悟は必要なのだろう・・・・こんな主張は顰蹙を買うだろうが、私自身は、それ位のことは考えて「家」を建てたと云う自負がある・・・・家族も知らない「私の自負」である。何故なら、結婚前に「家」を持ち、その後に結婚した妻と、生れた娘である。私の覚悟とは無縁の所で生きているのである。

あおそらく、「安全」も、また「被害者」も、己の覚悟があるのか、否か・・・・「自己責任」が正義か否かを真剣に考える時代になっているのではないだろうか・・・・先日の「白熱教室・宇佐美誠教室」は、そんなことを問う抗議ではあったと思う。

今朝も、福島に「震度5」の地震・・・・心なしか、地震速報に「福島」の文字を見ることが多い様に、私は感じる。そんな福島に何故「原発」が建設されたのか・・・・「原発」を求めた空気が、その建設を許したのであろう。福島・原発の事故を措いても、その安全率は高いものだろう。全国の原発が騒ぐ問題ではないと・・・・私は思う。しかし、一度、今回の様な、放射能を拡散させる事故が発生した場合の危険が、避けられないのも、現時点では、その事実を無視することは出来ない。
原子エネルギーは、人類にとっての夢のエネルギーである。いわば、発展を続けて生きた人類の科学史の「踊り場」であると、私は思う。その「踊り場」で、現行技術・思想では、そのエネルギーが潜ませる危険を防ぎえないことを確認したのも、一つの科学史ではあるだろう。

ドイツ、イタリアが、自力エネルギーの確保で、脱・原発の方向に政策を転換したのなら立派だが、現在の所は他人任せ・・・他人頼りの脱・原発である。これを、「脱・原発」と評価する政策が、Europeで支持されるはずはない。この両国は、大きな政治的妥協を、何かに付けて、周辺国家から求められるだろう。もし、その圧力に抗することがあるとすれば、ドイツなどは、第三次世界大戦勃発の引き金を引きかねない・・・と、私は危惧する一人である。

日本が、水害と決別するには、既存の河川の川幅を大きく拡幅する必要がある・・・機械的には克服出来ないのが「川幅」であろうと、私は思うから。その為に、農地が大きく減少し、住宅地を大きく縮小する必要があるだろう・・・・つまり、我々は、狭い国土をいっそう狭くして、食糧を確保し、住居を確保しなければならない・・・・その文明の発展・拡張の為には、今の数倍のエネルギーを必要とする筈である。そのエネルギー源を何に求めるか・・・・化石燃料に求めるならが「世界。争奪戦争」に参戦する覚悟が求められる。萎縮するなら、中国・韓国の、浸透的侵略を間断なく受け、民族滅亡の運命を甘受せざるをえなくなる・・・・500年、1,000年、あるいは一億年の眺望である。

少なくとも、14世紀の「元」の侵攻が博多で食い止められなかったら、この列島は、大陸の騎馬民族の蹂躙する島になっていて、彼らが、本来の彼等の土地を枯らしたように、この日本列島も、砂漠化し、その結果、山は崩壊し・・・・日本海を浅くするで泥濘と化しているであろう・・・私の想像である。古来、山を大切にしてきた、我が民族とその知恵・・・空き地があれば、家を建てる、緑を剥いでゴルフ場にする・・・民族のエトスの変化もまた、相次ぐ水害、山崩壊の原因であると、自らに言い聞かせるべきだろう。
日本が近代化への道を間違わなかった、その精神構造が、この列島の豊かな「緑」にあることを確認し、水害も原発も、この視点から考えるべきではないか・・・私の提案である。
3世紀には、鉄の輸入国であった、この国が、10世紀頃には、優に国産化を可能にし、14,5席には、武器の輸出国になっていた・・・・しかも、山野を荒さずに・・・・その歴史に、エネルギーと文明の視点を措いて、水害も原発を、考えるべきなのである。