文明に背を向けてはならない!!!・・・・Copy

危険な「文明」は沢山ある。いや、「文明」とは危険なものである。その危険なものを手名付けて、この地球上に住み続け、DNAを継承しているのが、人類であろう・・・と、私は考える。その危険性も文明なら、それを安全なものにしながら継承するのが「技術」である。各種動力源・・・蒸気機関内燃機関、そして、薪、石炭、石油等々・・・その現時点で究極が「原子力」であり、放射線である。究極の最終到達点は、太陽エネルギーの直接的な利用であるとの説を聴いたのは、原発誕生の前のことではなかったか・・・?今は、常識に過ぎないのだろうが、何処かで、誰かが密かに研究を続けているのだろう・・・・つまり、太陽からの「電磁波」を、直接エネルギーとして収集し、利用するというもの・・・映画・「アトランチス」で見た「殺人光線」に類するものだと、それを読んだ時に思ったものである。

その背後で、大活躍しているのが、スーパーコンピュータであろうし、スーパーコンピュータ自身が、時々刻々進歩しながら、その機能を発展・拡大しているのであろうから、究極の兵器への道を防ぐには二通りしかない・・・これは、カントの言う、安全・安心・安穏である方法が、自らを奴隷とする事と、自らが専制君主であることの二通りしかないことに共通することなのだろう。スーパーコンピュータに支配されるか、否か・・・と、云う事でもあろう。

蒸気機関の元祖は、BC3世紀だと・・・バナールの科学誌にあったと思うが、ギリシャの古文献には、蒸気力を使った玩具や見世物的装置が出現しているのだと言う。恐らく、爆発、あるいは、大やけどに類する事故は頻発したことであろう・・・あるいは、政治家の暗殺に利用されたのかも知れないし、争いの現場の「こけおどし」には十分になったであろう・・・私の妄想である。
地下鉄はイギリスに産業革命の頃に出現したと言われるが、その地下に列車を牽引したのは、蒸気機関車である。当時のロンドンを始めとする都市の空気の汚染は、今日的感覚からは想像を絶するものであったであろう。映画・「エレファンとマン」は、その様な時代の実像だろう・・・気管支炎に類する病で、どれ程の人が命を失ったのか・・・緩慢な「死」に対して人間は寛容である。緩慢な「死」への対処が、平均寿命の延長に寄与するところが大きいのだが・・・人は酒に溺れ、麻薬に走り、博打に神経をすり減らして、緩慢な「死」を急ぐ・・・。これも、文明の「負」なのだが・・・。

内燃機関の発祥とその後の発達の歴史には疎い。工業高校の卒業式で、「内燃機関」の“学科賞”を獲得した私には恥ずかしいことだが・・・。しかし、動植物から採取される「油」の利用技術が、その以前にあったのだろうと、私は想像する。
しかし、蒸気エネルギーの限界は「地下鉄」まで、自動車、航空機(戦闘機)、あるいは、潜水艦は不可能であったろう。
戦争が、陸上から「空」に拡大し、海上から、海中に拡大したのも、化石燃料の利用技術の進歩・発展である。また、その戦争の殺傷力を格段に拡大したのは、言うまでもなく「ダイナマイト」の出現であり、ニトログリセリンの出現である。ノーベルが、以下に、その現実を嘆いても、後戻りは不可能だし、戦争の拡大は、ノーベル自身の財の拡大・拡張でしかなかった。彼の終焉は、稼ぐ意志がなくても、世界が稼がせてくれる・・・その止めようがない現実ではあったのだろう。成長・拡大の中の、彼自身の苦悩であり、悲惨な人生の終焉では在ったのだと、私は想像する。

そして「核」である。核分裂の発見は、実験室での偶然の出来事だった。NHKのドキュメントや色々な著書では、一人の女性科学者による快挙だったのだと言われるが、ノーベル賞を受賞したのは、先輩格の共同研究者(男性)だった。キューリー夫人の出現の少しだけ前だったと記憶する。
放射線」・・・キューリー夫人も、放射線に健康を害して、かなり悲惨な生涯の最後のステージだったと読むが、私は、この方が、迫害がエスカレートするヨーロッパで、その擁護に尽くしたことを忘れてはならないと思う。彼女は、子供達との別居せざるを得ない環境で研究を続けていた・・・娘も、物理学者であり、核の研究者である・・・彼女が、その娘と交わした交信(勿論、手紙)には、涙を禁じえない情感が満ちている。娘の世話をしてくれているユダヤ人メイドを如何に守るか・・・細かな注意が書かれ、時に、難しい数学の問題が開設され・・・羨ましい限りの親子の情の交信である。私が、「教養」の必要性(私自身の不足への晦渋を含めて)を、時に説くのも、「教養」なくして、この交信は存在し得ないだろうと思うからである。

今日、蛇蠍の如く嫌われる「核エネルギー」だが、其処に流れている精神は、人類への「愛」であると、心すべきであろう。研究者の、我が身の危険を顧みない、政治に屈しない心根があって、新しい文明が出現する。これを、以下に手名付けるかは、その時の現代を生きる人間の覚悟なのである。
キューリー母子の、この交信に見られる「教養」が、私を含む一般市民に、数千分の一、万分の一でも備わったら、昨今のニュースをにぎわす「やらせ」も必要ないだろうと、確信するからである。「やらせ」とは、諸々の活動家が、自らの主張を強化する為に・・・根気強い説得・説明のプロセスを省き、無知蒙昧な市民の無知を利用して一部を扇動し、自らの主張で洗脳する結果からうまれる・・・幾多の「やらせ」の現場に遭遇し、自らも「やらせ」の手法の中に溺れた我が身として思うことである。あるいは、保守系の候補者の演説会場で、お仕着せの弁当を食い、翌日は、革新系・左翼候補者の集会で、政治アピールをシュプレヒコールする・・・その後には弁当の支給が当然・・・その様な大衆の何千人を目にしてきたことか・・・・「まだやっているのか」と、ニュースを聴きながら思った事だった。「やらせ」を引き受ける個人がなくならない限り、この現象はなくならない。「やらせ」事態が、文明に背を向け、文明を凌辱し、明日の文明を破壊することであることを自覚しなければならない。そして、「やらせ」の結果が、各種選挙に「負」の効果となるべく、「市民」が誕生し、増えることが、「やらせ」撲滅の要件でもあるだろう。
「文明」に背を向けてはならない。真摯に直面し、真摯に文明に問い、真摯に答えを探し、真摯に共存する覚悟を決める・・・勇断である。未来の世代への信頼でもあり、期待でもある。我々は、「今」のみに生きているのではない。過去は勿論大切な実績である。そして、その過去が、現在に共存するから明日を信じる契機も生れるのである。
「生きるとは、文明を考えることである・・・」何処で聞いたのか、読んだのか。誰の言葉だったか記憶にはないが・・・時に、我が脳裏を過るフレーズではある。