「大連立」への危惧・・・・

「大連立」よりも、「党議拘束」の撤廃を・・・・・!・・・Copy
「大連立」・・・民主党・総裁選挙の大目玉になっている様子・・・土俵際で、相手が立つのを待って立つ力士の様なもので、住もうが取れれば、それでよし・・・・勝負は度外視・・・いや、勝つつもりもないし、意欲もない・・・・民主党の空気なのだろう。
また、「大連立」を持ちだすことで、大票田である、「小沢一郎・一派」の歓心を集めよう・・・そんな力学、思惑・魂胆が透けて見える。あの時、自民党に大連立(福田総理)を持ちかけた小沢一郎の政治手腕、政治思想・理念に、私も「まさか・・・」と思っていたので、驚いたものだが、その時の、小沢一郎のセリフに納得したもんだった・・・曰く;民主党には、政権を維持する能力は備わっていない。自民党と手を組むことで、しっかりと、政治を学ぶ必要がある・・・・と、云うものだった。小沢一郎が、民主党マニフェストに拘るのも、その地下談義の中で、自民党も、政権に参加できれば容認するとの思惑が、自民党内のゲリラ的な感触としてあったのだろうと、今に思う。少なくとも、「子供手当」は、その思想に置いては、既存の「児童手当」と大きな格差はないわけだから、政権参加の自民党との協議は可能だったはず・・・金額については、その時の「お金のやりくり」だから、政治思想・理念とは無関係である・・・・このあたりが、日本のマキャベリアン・小沢一郎の面目躍如でもあるだろう。

今、民主党の大勢は「大連立」に傾きつつある。自民党も、「拒否」派は少数だろう・・・私は、民主党の劣勢が挽回できなければ、可能性大だろうと思う。また、「ねじれ」解消の為にも、自民党内の賛同を得やすだろう・・・結論としては、大勢として、「大連立」に傾く・・・と。
そして、私は「危険」を感じる・・・・政治家の自己撞着である。「安易な道」には、陥穽がある。かつての「大政翼賛会」が、政治家の、自分の身分が欲しいが為に、多くの政治家が、大勢に殉じた。結果は、ごうろじ・・・と云う事だが、何処かに「聖断」頼みのものがあったのかも知れない・・・・その過程は、日清・日露戦争と同じ「轍」だったとも言われるから・・・・つまりは、「成功経験」の陥穽でもあったとするなら、その結果は「運命」でもあったと言えるのかも知れない・・・・。

しかし、私は「大連立」に反対する。寧ろ、「党議拘束」を、限定的なものとして、一般には「ない」ものとする方向を選ぶべきだと思う。党議拘束がなければ、党議に縛られた、政党間の協議にも、そんなに時間を要することもないだろうし、与党・野党間で、揺れる政策については、個々人の政治家の選択の方が、政党間協議の結果よりも、その思惑が小さくなるだろうから、より「妥当」に近いのだろうと、考えるからである。
世界の民主主義国家の議会においても、「党議拘束」は、無いと言えるのではないか。イギリスの下院が、与党・野党が、その席に向かい合って議論をする・・・この光景がTVに登場するが、自党の政策に反対の態度を表明するときは、「左側・・・つまり野党席」に席を移して挙手するのだとか・・・確認したわけではないので、誰か詳しい方の教えを請いたい・・・。しかも、イギリス議会は、質問も、答弁も、事前に決められていない議員でも、可能なのだと・・・勿論、自席からの発言だから、演台にしがみつく醜態もない・・・・。

アメリカ議会は、これもTVの映像に詳しいが、討論が白熱してくると、議員の個々が席を立って、相手政党に属する、親しい議員の側に歩み寄り、色々と、妥協点を探る対話をしている光景がある。議席に縛り付けられて、投票マシン化した、日本の議員とは雲泥の差である。党議拘束とは、議員の個々を、討論の場の「奴隷化」の意味であると、私は思う。

ジョン・F・ケネディー著の「勇気ある人々」の中に、党(民主党だったか、共和党だったか・・・)の主張に、疑念を挟んだ政治家の一人が、党の政策に反した投票行動を取り、結果が、一票の差で決まる話がある。勿論、その議員の政治生命は絶たれる。この議員・・・地元では、党の政策に賛成するよう、支持者には求められていたし、その様に行動すれば、次期選挙での当選も約束されたいたのである。しかし、国家的見地からは、自党の政策に賛成することが、「犯罪的行動」であるとの説得も、選出地元で訴えているのである。
日本でも、党議拘束に反する行動を取って、党から処分される議員が時々現れる・・・・メディアは、「反党行為」として、叩くケースが多いのだが・・・メディア自身が、「忠君愛国」的心情を払拭しきれていない証だと私は観ている。地域においておや・・・・と云うべきだろう。

フジ・プライムニュースに、民主・自民の国防議員がguestとして登場し、幅広い議論を行うことが、一年に何度かある・・・・他の政策に関する議論に比べて、まことに「平和」である。みのもんたや、たけしの番組の様に、やらせに似た激しい・いや汚い発言をぶっつけあって・・・それを司会者が煽り・・・と云う雰囲気とは全く違う雰囲気が楽しい。討論とは、対立点があっても、その対立点をすら、双方が理解しながら、大事な論点を視聴者に伝えようとの努力が、視聴者にとっては嬉しい!
おそらく大連立をしてしまえば、この様な議論・討論も不可能になるではないか・・・・政策決定には、個々の議員の依って立つスタンスで議論をし、採決に応じれば善いのであって、なにも、党議で拘束する必要はないだろう・・・・そして、静かに議論され、討論された、その内容は、一般国民・視聴者にも理解が深くなる・・・のだろうと、私は考える。

大連立で、議場の居眠り議員を増やすより、党議拘束を外して、国民の側からも、その主張に耳を傾けるチャンスが得られ、大言壮語的な、政策appealに惑わされる危険からも遠ざかることが出来る。
党議拘束が外れれば・・・・少なくとも・・・党首の発言を、オーム返しに発言しているだけの、議員をTVの前に引き出すことも少なくなるだろう。顔をみただけで、発言が聞こえてくるような議員には、本来用事はないはずである。

しかし、国民の各位には、政治家の発言を注意深く聞き、注意深く理解する義務が生じる・・・・すくなくとも「茹で蛙」的な、国民には、この私の発言は無用の長物であろうと・・・・傲慢だが、思う。