volunteerに、正当な報酬を・・・・Copy

今朝のnews(NHK)・・・避難所の「カビ」・・・今までも、volunteerの手で、毛布や衣服のカビの除去は行われており、現在も行われているが、privacyの為の仕切に使われている段ボールの重なりの所に発生するカビ、また、個人の荷物や集積場所の床との間に発生するカビ、あるいは、寝たきりに近いかたの寝具と床の間に生じるカビ・・・等々、ようやく目が届く様になったとも言えるし、油断だったとも言えるものである。勿論、volunteerが、あちこち調べながら撲滅の作業を行っている。しかし、常に人間と接している所ではないだけに、点検・調査・そして対応・・・・気の長い・・・殆ど永久的・・・対処が必要になる。これらが、volunteerの名の下に、無料〜或いは無料に近い報酬〜でいいのか、ニュースを見ながら考えさせられる・・・。

震災当初・・・「震災特需」が景気を刺激する・・・そんな説も、数人のeconomistの口から聞いた様な気がするが、どうも、個人も、また国家を含む公共体も、volunteerを「無料」のserviceとして利用しているだけではないか・・・私の目には、そう見える。故に、人は働いても、動いても、それが「経済」に影響を与えない・・・・つまりvolunteerの犠牲の部分が、GDPに寄与しても、それは、volunteerの貧困化を招いているだけではないのか・・・・volunteerの減少も、またむべなるかな・・・そんなことを思った。

自衛隊、消防、警察等の、本来の業務の中に包含さ得る「活動」は、その対価が、給料・手当の形で支給される・・・・また、必要な機材等のcostも保障される。しかし、volunteerの個人的な消耗に関しては全て自己負担では、個人的な減収にはなっても、その購買も、その減収分でしかない。

私は、volunteerに要する、人的、物的コストも、その活動に応じて支払われるべき、労働費も支払われるべきだあると思う。volunteerの美名に隠れて、その「ケチ」ぶりが、経済を音占めているのだと、確信する。勿論、国庫負担、自治体負担になり・・・・「税金」に跳ね返る。「税金」に跳ね返るからこそ、被災地を全国民で支援することになるのではないか・・・品質を問わない「安売り」に群がる卑しい根性は、メディアもマスコミを通じて大きく報じる・・・その効果は、新聞、雑誌、チラシの増加で、マスコミを潤す。そして、一般市民・大衆の卑しさを増幅する。
そして、「税金」・・・一円でも上がろうものなら、口から泡を飛ばして反対を叫ぶ・・・この分野の醜さは、概ね高齢者に多い・・・・高齢者の私自身が恥ずかしい。晩酌の肴の一切れを減らして「税金」に当てることなど、考えもつかない「悪徳老人」の汚さであろう。

volunteerや、それに類する、色々な活動・・・・小学生から事業者まで・・・・行った仕事には、それに相応しい報酬を与える、支払う・・・・災害地に相応しい企業や商業、あるいは医療、介護が生れるのではないか。何をやっても、「手出し」・・・・己の窮乏化にしかならないvolunteer・・・・気持ちが動かないのが当然であろう。

戦後の焼け跡なら、すでに「バラック」が立ち並んでいただろう。「ヤミ市」も生れていただろう。被災には、そんなvitalityはないのか・・・・曽野綾子ならずとも思う事である。私も、震災・数か月の時点で思ったことである。新しい建築が規制される・・・・新しい建設が始まった時に邪魔になるのであれば、立ち退く・・・その覚悟でいいではないか。戦後の焼け跡の「ヤミ市」が、全部現在の商店街になっているわけでもない。消えるものは、その役目を終えて消えたのである。地の利と、能ある人々の努力の幾つかが残っただけのことである。戦後の復興の陰に、焼け跡から生みだされたGDPも大きく貢献していることだろうと、私は思う。

全部「自力」で・・・となれば、戦後の「無法」へのお目こぼしも必要になる・・・寧ろ、その方が難しいだろう。働いた人には働いただけの、工夫をした人には、その効果に応じた報酬を・・・そして、訒小平に倣えば、豊かに成れる人から豊かになればよい・・・・立ち上がれる人から立ち上がればよい・・・のである。底には、「格差」も、「非平等」も生れるだろう・・・・しかし、ヒントとチャンスに規制を賭けなければ、それも必要なことだろう・・・と、私は考える。

四海皆平等とは、特権階級を除いては「不平等、不自由」の意味の話であり、その典型が、共産党社会主義支配の国家であった。ヒットラーのファッショに倍して「悪」なる政府と云われる所以である。
哲学者・カントも、その著書・「永遠の平和の為に」に言う。奴隷となるか、自らが専制的支配者になるか・・・・平等も自由も、この頂点に立つものか、その底で生きる事か・・・その二通りしか、人間社会にはあり得ないと・・・人間の社会は、最低二つの勢力が競い合ってこそ、その平和の概念が維持され、自由の概念があり、平等の概念が存在するのであると・・・・