大槌町の町長選挙・・・・やれば、出来るじゃないか!・・・Copy


・・・投票の結果を聞き、其処に至る町・職員のドキュメント(TVに紹介された)を観て、直感的に口にしたセリフだった。勿論、住居を追われてばらばらになっている町民である。もう、町に戻らない覚悟をしている町民もいるだろうし、必ず戻ると決意の固い町民もいるだろう・・・・この選挙が行われるnewsが流れた時、法廷投票率を確保できるのだろうか・・・・と、懸念したものだった。遠くにいる我々には、郵便物がきちんと届いているか、否かさえ、定かではないのだから・・・・

しかし、終わってみれば、投票率「73%」・・・地方選挙の投票率は都会に比べて高いものであることは承知している。投票率の低さを、「都会風」と自慢する輩も、スナックのカウンターにはいるのである。映像には、郵送投票の投票用紙を配送する職員の懸命な姿があった。

この分なら、国政選挙も、知事選挙も「可能!」と自身を深めた人々も多かったのではないか。日頃なら、ノンポリを決め込んで、思想なきニヒルを決め込んでいる人々も、足下に眼をやれば、無関心でばかりではおれないのだろうと、想像する。

新しい総理大臣が、何をやってくれるのか・・・・ではないのである。俺が何をするのか!・・・・ケネディーの言葉も、彼だったから言えた・・・・しかし、それが言えない政治家を非難するのか、それが聞こえない、我が耳を正そうとするのか・・・・・政治家の過去が如何なるものであったか・・・それを無視は出来ない。しかし、一旦、代議士として選んだからには、己が認めた代議士に、己れが認めたはずの瑕疵を追及するのは卑怯である。民主主義は、「卑怯」とは無縁でなければならない。

そもそも、奴隷制を前提とした市民社会で生れた「制度」である。それは、「奴隷根性」では、政治をやってはならない、参加してはならない、参加させてはならない・・・・そんな矜持が要求されるているのである。己が、奴隷になっていないか・・・・奴隷根性で発言していないか・・・・・己の責任が、発言の裏付けになっているか・・・・政治家を選ぶ側が絶対多数なのである。ギリシャの時代でも、有能な政治家や軍事指導者を「貝殻追放」にして、国家を危うくしたのは、再々である。現在のギリシャも、その時代に遡行しているのかも知れない・・・・余
談になった。

ブログであれ、手紙であれ、メールであれ・・・・己の文章を磨き、己の思想を止揚し、己を表現する・・・・正し、己の主張が文章が、「金科玉条」と考えてはならない・・・その先端に達すると、「アキバの狂人」になってしまう。籠って発言するのではない・・・・自分の中で、観方を変え、視線を多様にし、表現を磨き・・・・上品さを養い、文化的高さの香りを付与する・・・・さすれば、必ず、行政の「心」を打つものである・・・・一片の詩が人々の心を動かす様に、数個のオタマジャクシが、凍った心を溶かす様に・・・・まずは、行政が動くきっかけをつくり、行政の心が、人々の心を動かすエネルギーを生み出す・・・個人の意見とは・・・・その周りに「雲蚊」の如きた様な人々の心が飛び回って、初めて存在がしれるのである・・・・・

新しい総理大臣が生まれようとしている・・・・早速、何をしてくれる・・・・・等は、卑し過ぎる。
町長を津波に失って、町長の存在の重要性に気付いた職員、町民の覚悟が、今回の快挙になttのだと、私は確信する。「いてもいなくてもよい町長」なら、この困難な時に、コストを費やして選挙をする必要もなかったであろう。

亡くなった町長・個人の人格の問題ではない・・・・行政のシステムとしての町長の存在である。その存在が何故必要か・・・・町民を支え、町民の命を守る「仕掛け・システム」であることを、大槌町の町民が自覚したのである。新しい町長が「理想の町長」であるか・・・そんなことはないだろう。町民が、調整年うシステムを運用するに値する人材として選んだのである・・・・。

私達が、野田・新総理を必要とするか、否か・・・・それは、新・大槌町長と、根は同じ所にあるのである。すくなくとも、己を卑しめて、ヤッカミ的評価は慎んだ方が良い・・・・と、私が、この大槌町の選挙に考えたことである。