防災・・・妄想・・・・Copy

那智勝浦の、悲惨な映像がTVを付けた途端に流れていた。「これは人間が住む所ではないな!!!」と一瞬間思ってしまった。勿論、現地の方々や、被害者の方々の心を逆なでする様な「もの言い」であることは、百も承知。しかし、先祖伝来住んでいる所だから・・・それだけで、安全に住める所か、否か・・・其処には、別の判断があっても良いのではないか・・・いや、あるべきではないのか。政治家が、「此処に住むのは危険です!」と言える「社会」でないことも、繰り返される災害の原因でないとは、言えないだろう。

上空からの、映像・・・本来「流れ」が、独占するべき谷筋に、川幅を圧縮して「人間」が住んでいる。集落が出来ている、人口が増えて、町になり、市になっているのであろう。町と言い、市と称すれば、あたかも、人間に住む権利があるがの様に聞こえるが・・・・ここに、大量の雨を齎したのが、これまた「地球温暖化」という、人間の仕業なのかも知れないのである。そこに住むには、住むだけの理由がある・・・それは「もっとも」である。しかし、その安全を確保するのは「誰か!」・・・政治と言う「仮装人間」とでも言わないと、説明のしようがないのも事実である。

私自身・・・地球温暖化よりも、太陽系全体の気象の変化によるものであり、これは、太陽系誕生から、あるであろう「太陽系滅亡」に至る変化の一端であり、また、太陽系全体の周期的な気候変動によるものが、温暖化ガスの影響よりも大きいのではないかと、考える一人であるが、昨今の、台風や季節の大雨の、この歳で回顧する経験にはない「雨量」の大きさを見る時、「温暖化ガス」の影響を無視はできないのではないかと、思わないではない。

しかし、先の「原発」騒動で、単純に「火力」への移行が、何の疑いもなく行われる現実に、あるいは、それを容認する我々人間の身勝手さに・・・人的被害の軽さを思ってしまう。

この地も、明治22年に、大水害の被害を被っているのだと言う。その歴史が、まだ語られないので、その様子を知る由もないが、想像するに、人的被害は、その数量において、今回犠牲の比ではないのではないか。また、山の崖、斜面の崩壊も少なかったのではないかと推察する。
深層崩壊・・・打つ手がないかの如くに報じられるが、山、なかんずく山林の崩壊が、上部の事情だけで起るものでもないだろ。山裾、崖の下部の状況の変化が、上部の崩壊を誘発するはずである。上部から崩壊するのだから、谷の底に住む人間に、その原因なしとはしないはず・・・科学・技術に依る原因究明を期待するだけである。

カメラの前で老人が呟く・・・「もう、此処には住めんな!・・・恐ろしい!」と。先祖伝来「安全」であったと言うのも、実は、迫り来る危険への無関心だったのかも知れないのである。少なくとも、人間は、その必要性に於いて「科学者」でなければならない・・・・と、私は思う。日常の観察があれば、日々の細かい変化も見える様になる。個人的な「差」は、一人の目の見のがしたものを、他の目が発見する、観察することである。其処から、地域の対話が生れれば、あるいは、危険の予知に繋がるのではないか・・・老人の呟きに思った事である。
自然に近い環境に住んで、都会に働く・・・都会に働かないまでも、気分的には都会人・・・これでは、その愛する自然の発する、人間にとっての「危険信号」が聞こえる筈がない、見える筈がない・・・悲劇が現実になった時に、親しい人々を失うことになるのである。己は、もう、悲劇とさえ無縁のものになっているのだから。

暑さにつけ、寒さにつけ、或いは長雨に、色々な海水の変化が報じられる・・・これが、温暖化の影響だと・・・そして、海水温の上昇が、台風の度に豪雨をもたらし、各地に、大きな被害を齎す・・・・ならば、海水温を下げればいいのか・・・・
・・・・太平洋で台風が生れ、日本列島に近付く・・・そして、沖縄、八丈島に近づく頃に、その勢力を弱め、海水温の上昇が齎す、暖かい大気の流入を減らせば良い・・・そんな理屈になると思うが・・・ならば、この海域に、数千、数万隻の原子力潜水艦を潜らせて、海底で「ドライアイス」を製造して、海底から吹き上げて、海面の海水温度の上昇を防げばいいではないか・・・・原発・嫌いが反対するだろうが・・・雨の量もコントロール出来るかも知れない。こんなこと考えている科学者はいないのだろうか・・・不可能なら、不可能な理由が知りたい・・・全ての災害を、「運命」として感受するから・・・・。