私も「脱北者」・・・Copy

昭和21年5月・・・新月の夜、「興南の港」を密かに漕ぎだした。舟は通称「メンタイ舟」。今回漂着した舟よりも少しサイズが大きい。しかし、エンジンはなし。帆掛け、手漕ぎである。三日間で、38度線直下の「注文津・・・先日、日本人女性が訪れて行方不明になった場所・・・北朝鮮とは指呼の距離である」まで、三日の予定が、連日の凪で、一週間を超えた。遠足用の水筒の水は、空になり、お握りもなくなった。
四日目の朝・・・これが最後と、母と父の水筒の水が、水筒の蓋に一杯づつ、兄弟(7歳の妹、3歳の弟・・・因みに私は9歳)の水筒に移された・・・残りは、頑是ない祖母の為の「命の水」だった。「今、全部飲んでしまうか、少しづつ口を湿らすか・・・自分で考えなさい・・・」との母親の言葉は、弟と妹の面倒はお前が責任を持てと言っていたのだな・・・記憶を辿って思う事である。賢い、妹と弟だった・・・残りの四日程を、左程の苦しみもなく過した。しかし、祖母は、何度も、海の水を飲もうと、海面に手を伸ばした・・・夜にそんなことをしていれば、間違いなく、鱶の餌になっていたであろう。

ニュースの脱北者の舟には、「上甲板」がない。連日の猛暑を海上で過すのは大変な辛抱だったろうと、私は、その苦痛を偲ぶ。私のメンタイ舟は、船倉・・・漁獲したメンタイを納める・・・があり、私達は、昼間は、其処に潜んで過した・・・どんな話をしていたのだろう・・・もう記憶にはない。
母は・・・毎年、大きなリンゴ箱や、乾燥めんたいや、いわゆる「メンタイ」を、季節毎に贈っていたので、多少は期待があったのかもしれない・・・その期待は、見事に裏切られるのだが・・・でも、父の母親はともかく、父の兄は、時に優しい言葉も掛けてくれたし、施しも与えてくれていた・・・母と子の記憶の質の問題なのだろう。

今回脱北者は、軍人の家族・親類縁者らしい・・・・どこの国でも、軍人は特権階級である。私達の「舟」も、晩年の父の話では、「朝鮮人・保安隊」の斡旋で手に入れた、いわゆる「ヤミ舟」であったと言う。今回脱北の舟が、真直ぐに日本を目指したらしいこと・・・・私達は、半島の東岸添いに南下したので、各所の「ソ連軍監視」が怖かったと父は言う。見つかれば、その場で銃殺だったろうと・・・満蒙の荒野を逃げた方々の手記を読めば、「銃殺」は疑う余地はないだろう・・・ロスケは残酷だから・・・父の口癖だった。片や、朝鮮人・保安隊は、全土的に組織があって、お金を巻き上げられることはあっても、殆ど「命の心配」はしなくても良かった・・・と、これは、父の独善的な思いが多分にするが・・・ロスケへの恨みの裏返しでもあるのだろう。

海上では、「音」が遠くまで伝わる・・・乗り合せていた「嬰児」の泣き声を船頭は嫌ったが、その夫婦は、上甲板に現れることはなかったと記憶する・・・私は、夜は、上甲板に出ていた・・・鱶の背びれの輝きを見るのが好きで・・・・。海面を覗いていて、何枚か重ねて被っていた「帽子」が、海面に落ちた時は、傍にいた何人かの大人が、私を抱きとめて、手を伸ばすのを防いでくれた・・・勿論、父からは激しく叱責された。5月だが、帽子を失くした日から数日・・・昼間は、上甲板に出ることはなかった・・・暑さに我慢ができなかったのである・・・五月の太陽なのだが・・・。

連日の凪だから、私の舟が「帆」を上げることはなかったと思うが、父の話では、「漁」を装うために、上げていたのではないのかな・・・と、述懐していたが、問題は、船頭が、米軍に依る「舟の没収」を嫌って・・・お金は、乗船時に払っているので、心配はない・・・注文津と偽って、僅かに北朝鮮側の海岸に上陸させることが心配だった。何人かの方が、この近海で「釣り」をする経験を持っていて、海岸の様子を観察しながら、船頭を誘導して、無事、注文津の海岸・・・注文津の港から数キロはなれた・・・に付けた。舟のなかで、大人達が、「金華山」と言う言葉を頻繁に発していたことを鮮明に記憶している。

戦後、フィリッピンのマニラ港から、台湾まで、バーシー海峡を「ボート」で、逃げた軍人が居るとか・・・殆ど島伝いに北上できるのだが、一か所だけ、全く北上の目標になる「島影」が全くない所があるらしい。記述の様子では、殆ど、公園の遊泳ボートの様な者らしくて、二人で漕いだというから凄い・・・海とは、努力する者に、時に大きな「幸運」を齎すものらしい。

興南を脱出した時、私は10歳・・・この舟にも、同世代の少年が二人程いた。大人達を勇気づける存在でもあったろうと、私は推察する。少年とは、少女とは・・・脱北であろうと、津波地震の被災地であろうと、はたまた、台風・水害の被災地であろうと・・・・大人達に勇気を与えるものであり、その勇気の意味を齎すものであろう。人類は、常に、苦難を自ら創出し、その苦難を克服する為に、少年、少女達に勇気を貰う・・・彼等に「幸あれ」と、祈らずにはいられない!!!!