運動会と熱中症と・・・・Copy

原因はともあれ、大気の温度が上昇していることは、疑いない。十数年前の「区長」を仰せつかっていた頃、早朝は、夏でも、上着が要るほどに涼しかった。9月にでもなれば、少し、寒さを感じ、10月に入れば、下着を一枚増やす朝もあった。しかし・・・今は、9月半ばでも、早朝の気温は25℃である。日中の暑さは、言うまでもない。
朝の涼しい間に・・・校長の配慮があっても、2時間もすれば、気温は瞬く間に上昇する・・・そこで、運動会の練習をする・・・まるで、軍隊の「訓練」風景に近いものがあるのではないか。況や、クルマ社会の子供たちである。夏の通学路を歩く程度で、・・・時には、親の運転するクルマで・・・登下校する子供たちである。私達世代とは、身体の構造が違っていることへの、教育者らしい配慮が必要なのではないのか・・・私には、重大な「怠慢」にしか見えない。

また、運動会が、何故、こんな早い時期に行われるのか。私の記憶では、「文化の日」頃だったと記憶する。妹の誕生日が「文化の日・・・父は“明治節”」だった。誕生祝い・・・私には、そんな記憶はないのだが、妹だけは、運動会の弁当の残りものが、誕生祝いの膳だった・・・半ば、冗談なのだが・・・父は妹に・・・「お前だけが誕生日を祝って貰える・・・」等と、真面目とも冗談とも言えない言葉を発していた。

通学路が、香月線(筑豊の、小さな支線)だったので、通学路の半分位は、線路を歩く。「枕木」の表面は、「霜」で真白・・・裸足で歩く、足の形がクッキリと残る・・・今でも“まなこ”の底に残る光景である。運動家が終ると、グランド、教室等の片づけが上級生には課せられる・・・「宴の後」などと言う言葉が、少年の日のKWとして残る世代ではある。

私は、成績の良い子だったから、4〜6年生の間、職員室と、その関連の教室の片付けに当れた・・・教師達の「打ち上げ」の下準備である・・・学校の近くの子は、「宴の後」の片付けもしなければならなかったはずである。しかし、食べ残しの「余碌」に預かる特典があった・・・当時、ハム等は、中間町程度の金持ちでも滅多に口に出来るものでもない。子供の為に、教師に「ゴマを摺る」父兄からの差し入れだったのだろう・・・その残飯を食べた経験を語る子の口ぶりに、植民地生れ、植民地育ちの少年達は、「卑しさ」を感じたものだった・・・。しかし、先生(訓導・・・と言う)達が打ち上げをすることに違和感は感じなかった・・・「時代」の少年だったのである。

話が逸れた・・・何故運動会を、この季節に行うのか・・・真夏日が続く頃は、積極的に避けるべきではないか。少年達・・・年少の・・・は、「時代」の子供達である。その日常に併せた、学校行事が行われるべきであるし、その時期も選らばられるべきだろう。
11月、12月・・・はたまた、2月、3月・・・では、何故悪いのか・・・教師の仕事が多いから・・・言訳は、聞かない前から聞こえてくる。生徒を熱中症に晒しても、己の業務の都合を優先させるのか・・・私は、「運動会」そもものの必要性を疑問視するのだが、己の体験を「喉元」過ぎたものとしか認識できない、「馬鹿親」の所為だと言う評論家の言に、私は賛同したい。

熱中症は、多分に「脳」の病であると、私は思う。身体の機能をコントロールする「脳」の機能が損傷を受けて発する「体調不良」であろう。頑健な子供より、「脳」を良く働かせる子供が望まれる現代・・・わざわざ、子の「脳」を損傷する運動会を熱心にする必要はないだろう。むしろ、快適な図書室で、一冊の本でも、静かに読ませる方が大切だと私は考える。あるいは、読書に感じた感情を、作文として表現する訓練、自ら問題を設定して論じる能力を養うことのほうが、余程大切なことだと思う。

子供の健全育成・・・・結局、マナーが悪く、指導者の言葉を鵜呑みする「単純人間」を育成するための、体育系の行事だけが、喧伝され、文化面での知識を深め、考える子供を育てることには無関心である。
今、日本の政治が、世界から大きく「水」をあけられているのも、軍隊のなくなった戦後に、それに変わるものとしての、体育系の「健全育成」が、促進され、考え。論じる能力の育成とは無縁の少年時代をすごして、人辺りと、口舌の巧みな、右顧左眄に羞恥を感じない人間が、政治の世界に多すぎるからである。

私の、八幡製鉄・入社試験の面接でも、「面接官の前で“読書”を語るな」と、教師から厳しく注意を受けた。語るべきスポーツの経験のない私に、教師は、家事手伝いを、その労働を中心に、ことこまかく説明せよ・・・と、助言してくれた・・・・後日に、私の身元調査をした人事の担当者から、「近所の方の、君の評判は、君が面接で語ってくれた事と同じだったね・・・」と、当時を回顧してくれた。

この体育系重視の風潮は、今も残っているらしい・・・・幼い子に、母親は「読み聞かせ」を熱心である・・・これも豊かになった証なのだが・・・その実、母親は、子供以上の本は読んでいない。例えば、ミヒャエル・エンデの童話は、子供呼んでやっている。しかし、彼の評論、あるいは伝記等には無関心である。また、子供が、中学生になっても、高校生になっても、子供部屋に「本棚」がない・・・と、私には信じられない話なのだが、大学生の、寮の個室には、本棚のないのが常識でもあり、あったとしても、並んでいるのは、「漫画」と「写真集」だとか・・・。

熱暑の中で、運動会の練習に励み、時に「熱中症」に倒れた子供達の・・・成長した時の姿なのかと、嘆く、巷の教育者もいる。

「運動会」・・・・恐らく、日本がまだ「後進国」の域をでていない証であり、昨今の政治情勢も、その姿、そのままなのだろう・・・・松下幸之助が、松下政経塾で、私財を擲って教育しても、野田総理前原誠司・・・程度でしかない。彼等とて、選挙民の前で、少年時代を誇り高く語るとしたら・・・それは「体育系」の話題だろう。

欧米の様に、シェークスピアを読んでいなくては、あるいは、語ることができなければ、政治家にも、企業家にもなれない風土は、この国にはない。また、政治家、企業家の評価も、その貧しさ、当てにならない「清潔さ」でしか出来ないのである。TVの芸人キャスター、自称評論家が、ことあるごとに、政治家の手当を話題にし、その削減を論じる・・・自らの芸の程度と報酬を語ることはない・・・その点では、プロのアスリート達は立派である。自ら育てた、自らのディシプリンなのだろう・・・尊敬に値する。
「運動会」の話を、拡げてしまった。「運動会」が続く間は、この国は「後進国」である・・・私は、疑わない。