被災地のダチョウ・・・・Copy


被災地の駝鳥

放射能被害で立ち入り禁止地区に、一羽の駝鳥・・・駝鳥園の生き残りだと言う。園長の言では、「ボス」だと言う、生命力も強いのだろう。
しかし、死んだ駝鳥の死因は、放射能ではない・・・らしい。この駝鳥、見廻りの職員の与えるドッグフードを旨そうに啄ばんでいた。もっと早くに、食べられる「餌」を与えておけば、もっと沢山の駝鳥が生存していたのではないだろうか・・・・人間に対する「危険性」に動転した人間が、その人間への危険性を考える時に参考となる生態を教えてくれる「生き物・動物」に如何に冷淡であるか・・・自分の「命」だけを考えて、この地球に生存出来ると言う傲慢だろう。

我家でも、この地に住み始めた頃は、モグラもいた、ネズミも天井を走っていた・・・そのネズミを追って、蛇が天井裏に侵入した、あるいは、庭を横断していた。庭の柿の実は、半分以上が小鳥たちの餌になったいた。もし、命を危うくする様な事態が生じたら、彼等の姿が消えるだろう・・・古老たちが語っていたことを記憶に手繰ることができる。
今は、モグラもネズミの、そして蛇も・・・そして、小鳥もいなくなった・・・代わりに、カラスがゴミ袋を破る・・・カラスが死んだら〜明日は、己の命が危ないのかな・・・そんな話題が生れる時代である。

放射能・・・日常の仕事・業務で、放射能と接する人々は、「俺達の方が余程、沢山の放射能を浴びている\\\」
Tと言う。勿論、原子炉の近くで働く人々は、厳重な管理の下にあるのだが、小さな実験室では、精々、被爆線量の値を信じてworkをするのが責務であると・・・・「騒ぎすぎだよ・・・」と、一言の下に話題にけりを付けるが、「百歳まで生きるつもりなら、こんな職場、研究分野は選ばない・・・」とも、おっしゃる。緊張の中に楽しく生きる・・・40歳でも、50歳でも・・・・70歳近くまで生きる事が出来たら・・・「良き人生」・・・」と。

この駝鳥・・・恐らく「放射能」には無関心、知識もないだろう・・・・しかし、我々に、貴重なdataを提供してくれるのではないか・・・・つまり、放射能と共存しながら生き・・・そして、それが人間の生存に貢献しているはずである。
数十頭の駝鳥が「餓死」したらしい・・・・こんな「死」を「無駄死」というのだろう。いや、人間の、人間しか眼中にない傲慢が、悪戯に、あたら貴重な駝鳥の「命」を無駄にしたのである。政府や東電関係者を責める前に、自らのヒステリックな行動が、あたら己の命を危うくし、不自由を強いているのかもしれないと、一旦は立ち止まって冷静になるべきではないか・・・・
セシュームの半減期は30年だと言う。じっと30年を待つのか・・・チェリノブイリでは、既に、農民が禁止区域に農業を始めて久しいと言う。農作物が市場に出ているか、否か、定かではないが・・・半減期が満期になるまで待つ必要があるのか、あるいは、半減期が実証的に正しいのか・・・・検査装置の数値よりも、ここに生息する「命」から得られるdataのほうが、実効性が高いのではないか。

畜者を離れた「牛」の多くが餓死したらしい・・・あたら貴重なdataを提供してくれる「命」を見殺しにしたのである。研究者というものの、「生命観」を疑わざるを得ない。彼等は、「教科書」からしか、物事の判断をしないのだろう・・・・「命」とは、その尽きるまで、生きようとするものであり、その生きようとする努力が、次の「生命」の為に貢献するものなのである・・・それが、命の継承であろう。

「邪魔ものは消せ・・・消えてしまえ・・・」、その傲慢の陰で、大きな不安が生れ、正しい処方が見送られ、復活すべきものが、復活することなく消えていく・・・・人間とは、自業自得の中で、呻吟し、争いの種を播き、その成長に怯え・・・そして残酷になる。

「俺を使えば良いのに・・・」との駝鳥の声が、私には聞こえるのだが・・・・