マニュアルの複雑性・・・・日常的学力の不足・・・・Copy

東京電力への「保障」要求の書類・・・・損害が多義に亘っていれば、繁雑になるのは避けられないだろう。分厚くなるのも避けられないだろう。また、「賠償要求」・・・つまり「訴訟社会」から遠い、我が国の実情からは、被災者の側に準備が不足していることも、否めない事実であろう。
しかし、芸人・ニュースキャスターが口をそろえて、東電を非難する口調・・・・少々、被災者を小馬鹿にしていないか・・・
過去に、これほどまでに大規模な損害賠償の場面に直面しなかった事実を直視していなかった東電側の非は責めても良い。しかし、だから、被災者の能力不足を、これほどまでに喧伝していいものか・・・この請求書を掛けない人が、どの程度存在するのか・・・それを、東電に、事前に把握しろろと云うのは酷である。
新聞の「投書欄」・・・・投稿文章が容易に掲載されないことへの不満を持つ人は結構存在する・・・原文を読ませていただくと、インパクトのある話題に、インパクトのある論を展開しているのだが・・・採用する側からは、「難し過ぎる・・・」の理由で「没」になっているらしい。つまり、一次選別は、概ねアルバイトの高校生・・・その中から編集者が、掲載する投書を選別、若干の添削・修正を行って、掲載する・・・・つまり、掲載される文章は、「中学卒」程度が基準なのである。
恐らく、今回の東電の作成した提出資料・マニュアルは、立派な高校卒、可なり低級な大学卒を基準にしたのだろう・・・・そう、はっきり言えば良いとおもうのだが、この国では、「能力」は隠すもの、能力無きことが、人間性として評価されるエトスだから、今回の騒動になっているのであろう。悲しいことである。
確かに、加齢による、能力の低下はあるだろう・・・このブログを読んでくださる方には、私の加齢による能力の低下が見えているはずである。一頃の様な厳しいコメントが姿をけしているのだから・・・・。
政治家が、請求書の不備をそこに求め、喧伝するのは、自ら墓穴を掘るに等しい・・・何故なら、自ら出向いて、その不備を補う努力をすることで、現実を他面的に把握できるはずだからである。
芸人キャスターも同様・・・・恐らく、彼等の半分位は、チンプンカンプンなのだろう。何故なら、日頃の公的な書面の作成は、マネージャー、事務所任せなのだろうから・・・・本質的には、頭の良い人間が芸人になるのだろうが、それは、その良い頭を使わないことにも通じるものである。自らの不足は他人への依存し、得意な部分は、誇大に喧伝する・・・・頭の悪さ、物事の理解不足が、芸の種になるのだから・・・・
肉体的volunteerにあれだけの人数が押しかけたのである。請求書の作成のvolunteerが居ても可笑しくはないだろう・・・・
多少なりとも、アプリケーションシステムの開発、メンテナンスの分野で、客先の要望で作成するmanualで苦労した体験を持つ私が、今回の東電の担当者だったら・・・・「請求される保障の内容と金額を、可能な限り、具体的に、詳細に、自由な形式で作って、提出して下さい・・・」と、被災者に御願するだろう・・・・その、予想される結果は・・・・
①個々人に大きな格差が生じ、他人との比較で、不平不満が湧きあがるだろう。
②他人の「請求」を見て、追加の申し出が続出するだろう。
③買物のレシート等の、日頃から興味のないかたは、殆ど請求の根拠を説明できないだろう。
④特に、公共交通機関の利用に関しては、通院先、買い物先のreceiptを、その利用の証拠としなければならないことに、どれほどの人々が理解するだろう。
・・・マニュアルには、その様な事が、事細かに説明されちるのだろう・・・私は想像する。自分に無条件に通じる言葉は、殆ど一つであることを認識すれば、分かりやすマニュアル等存在しないことを理解するのは容易なのだが・・・
日頃から「弁護士」などとお付き合いのある方は、左程の苦労はしないものと考えられるが、それは、日頃から、それなりの「コスト」を負担していると云うことである。今、現在、危険地帯に変ずる場所に生活している方々は、今からでも遅くはない・・・・応分のコストを負担しながら、被災時の被害の軽減に努めるべきだろう・・・・と、私は考える。これも、「備え」の一つなのである。
現実に、私達は、クルマの保険では、十分に経験しているはずなのだが・・・それが、生活に及ぶことが少ないことが、今回震災で露呈したと云うべきだろう・・・・東電に「罵声」を浴びせて解決できる問題ではないのである。
政府も、貧しい人は貧しいなりに、多少でも生活に余裕がある方は・・・例えば、旅行に行ける、海外の買い物ツアーを楽しめる、子供や孫に高額な贈り物が可能・・・パチンコ、ゴルフに興じる方々・・・は、真剣に考えるべきだと、私は思う。面白、可笑しく日々を過ごして・・・それで満足な「命」なら、自然の気まぐれに抉られる危険を回避できないことを覚悟すべきなのだと・・・地球の天候が、あるいは、天変地異のCycleに出会った時は、「運命」だと、静かに消えるしかない・・・私の覚悟でもあるのだが・・・。

満蒙、北朝鮮から、苦難の逃避行を体験した人々が、殆ど不満を口にしない・・・それは、「運命」として甘受しているからであると云う。バーシー海峡に沈んだ多くの人々・・・実数は、殆ど掴めない・・・も、また、運命に甘んじたのだと、私は思う。それでも、「不可抗力」ではなかったと、論じる人はいる。現に、危険を事前に察して、危険を冒して、事前に脱出した人は多い。また、その故に、命を虚しくした人も多い・・・「運命」の多様性である。

しかし、「運命」に恵まれた時・・・・その後の不満、不安を如何に解消するか・・・これは「運命」ではないだろう・・・・もしあるとしたら、「政治」の形に無関心だった罪であろう・・・助かった「命」は不満を言い立てる・・・・しかし・・・・これから先は言うまい!