喋ると下がる支持率・・・・とは?

「教養」・・・これを口にすると、例外なく嫌われる。しかし、人間の資質を云々する時、この言葉なくしては、その評価を話題にすることはできないだろう・・・私は思う。
他人の一言一言に、批判を加える人もいる・・・得てして、その様な人は、自らは喋らない、発言しない・・・あるいは、他人を装って発言し、自らに言葉の責任を負わないものである。その具体的な「例」が・・・・「みんなが・・・・」と云う言葉遣いである。「俺が言っているのではないよ・・・」と言外に匂わせながら、自己主張をする、要求をしている・・・・。
「理性」、「知性」も、「教養」という範疇に括られて、評価の意味をもとものであろうと、私は考える。特に政治家の「教養」・・・・「教育的」には、それなりの資質を育ててもらっているのだから、横並びに比べて見ても、夫々に遜色のないものであろうが、その政治家を支えるbackboneは、同じではない。教養なき大衆に支えられれば、政治家の発言も、その教養の劣化を路程せざるを得ない。言わば、選挙区と国会内と、あるいはTVの討論会や、guestとしての発言も、大衆的ではあってはならないのである。
坊追放によって、「暴力団」が排除されようとしている・・・・しかし、「ヤクザ」の世界では、言葉が生命だったと云う、かつての親分が言う。つまり、配下の子分どもに使う言葉と、上位の親分に使う言葉の区別である・・・・右顧左眄とは異なる厳しさが要求されるし、配下に、暴力的な言葉で命令しても、同時に、上位の親分への礼を失することは許されない・・・・言葉の使い分け、己の存在の分別である。今、巷に、暴力団・・・自身はヤクザと自称しているであろうが・・・の行動が、粗雑を極めるのは、「ヤクザ精神」の喪失の結果であろうと、私は観察している。
日本人は「ヤクザ映画が好きだから、暴力団が容易には姿を消さない・・・」と、のたまう人は多いが、「ヤクザ」と「現代版・暴力団」とは、似て非なるものであると、その御仁は語る。私も、そう思う。
恐らく、言葉が幼稚では、暴力団の親分にはなれても、ヤクザの大親分にはなれないのではないか。堅気の衆と、裏街道を歩く人間と・・・その言葉の違いの事である。
「喋ると、支持率が下がるので喋らない・・・・」と、ぶら下がり取材を拒否する野田総理大臣・・・・総理大臣も、此処まで資質を低下させたのか・・・・総理大臣と云う職の目標が「支持率」であるとの「認識」に驚く。
確かに、記者の、取材の際の言葉には、えげつない下品さを、視聴者も感じている・・・それを巧みに交わせば、我々は、総理に、政治家に拍手を送るのである。小泉総理の人気が、このぶら下がり取材の巧みさにあったことは、周知のとおりである。やはり、彼の持つ理性、品性の雰囲気であり、時に激しい言葉が飛び出しても、決して下品に流れない・・・・つまり「教養」の強さであったと、私は思う。少々、witに欠けるのは、まだまだ日本人の、witへの反応がかんばしくないことに原因があるのであろう。
例えば、彼が、オペラや歌舞伎の一場面、小さな科白を、発言の中に含ませても、それを聞きわけて、彼の云わんとすることを忖度するだけの力量が取材記者の側にない。勿論、解説なしでは、大衆に理解されない・・・音楽、朗読、オペラ、歌舞伎、狂言、落語・講談・・・等々、人々が、個々人の言葉を磨くtoolなのだが、私とて、そのことに気が付いたのは、40も半ばを過ぎた頃だった。東京に出張の折に、時間を見付けては、「寄席」に立ち寄り、浅草演芸場に「林家三平」を楽しみ、帝劇や日生劇場に、染太郎(先代)を楽しみ・・・そんなことをする様になった。しかし、scenarioを読む楽しさを経験するまでには至らなかった・・・言葉の学びととしては、至って不十分である。

滑稽と可笑し味・・・・現代語ではhumorと云うのが分かりやすいのだろうが、正直に話せば「角が立つ」、柔らかく語れば、「迫力に欠ける」・・・・強調すれば「失言」に繋がる・・・言葉とは、その場に適応出来なければ、これほど不自由なものはない。政治家とは、その能力に長けてこそ、政治家なのではないか。賛成も反対も味方に付ける・・・迫力ある言葉だけが持つ「魔力」である。
そもそも、「支持率」を目標にする政治家に、政治家足る資格があるのか・・・問題にされるべきであろう。一歩引いても、言葉を知らない「政治家」にその存在の価値があるのか・・・勿論、選んだ大衆の資質も問題である。しかし、大衆の資質を、庶民の資質に変じる力量があってこそ、政治家であり、総理でなければならないのだと、私は考える。
表題の一言・・・大きな失言である。これを問題化しないmedia・mass communicationも、開いた口がふさがらないのか・・・今は沈黙・・・・喋らないことで、支持率が下がったら、野田総理・・・どうするつもりですか?・・・と、私は問いたい。

喋った失敗は取り返しも可能だが、喋らない失敗は、どの様に「おとしまえ」を付けるつもりですか・・・と。