クルマ・神話崩壊・・・・Copy

今朝のニュース・・・NHK・・・で、今回・津波の犠牲者と自動車での避難の関係が報じられていた。その中で、「急ぐ」と「クルマ;速い」の短絡的思考・・・思考の直結と言えば軟くなるか・・・が、被害を大きくしたと、これはNHK解説員の弁である。
私は、自身がクルマの運転が出来なので、あの津波の映像をTVに観た瞬間から、これは、クルマ災害だ!・・・とさえ感じたものである。そして、その後の報道の中で、この観点からの報道も、ニュース解説もないことに不思議を感じていた。

つまり・・・sponsorのご機嫌を損ねるのでは・・・という危惧からだったのだろう。民放の、ニュースの信頼性への、私の疑義である。

今朝のニュース解説・・・・聴きながら、「クルマ;自動車」は・・・早い・・・と云う神話が、人をして、避難にクルマを選ばせしめた・・・あるいは、わざわざ、クルマを取りに自宅に戻った・・・のではないか。あるいは、あちこちに散っている家族;現代の特徴でもあるが;を集める手段として、クルマが使われた・・・・加えて、被災地の様子を写真で見ると、道路が、海岸線に並行に走っている個所が多いと、私には感じられる。これが、海岸線と直角に「山手、高台」に向かっていれば、状況は大きく違ったものになったのではないかと・・・・

また、曽野綾子の手記には・・・・家族を乗せて避難所に向かうクルマの前方に、高齢の婦人が、とぼとぼと歩いて避難所に向かっている。クルマの中には、妻と子供、法的には「定員」である。そこで、妻がクルマを降りて、そのご婦人を乗せて、クルマは避難所に着いた・・・しかし、妻は、津波の犠牲になった。曽野綾子は、指摘する・・・・そんな所で「法」を無視する臨機応変な行動は出来ないのか・・・・と。

そして、クルマの速さが、渋滞を克服できないことに無関心・・・・これは、毎年繰り返される、お盆と正月の帰省ラッシュで、常識であり、習慣であり・・・それが、時に非常に危険な状況を惹起することに考えが至らないエトスを生みだしているのである。

まず、クルマは、渋滞がない状態で速いのであり、渋滞では、乳母車にも及ばないことに、考えが及ばないのである。クルマの中で、自らの死、家族の死を待つ・・・この残酷を、クルマから連想出来ない貧しさでもある。

曽野綾子の夫・・・三浦朱門は、都内であるが、躊躇することなく徒歩で外出先から、4,5時間を歩いた・・・・その感想は、「俺の歩く速さは、クルマの4倍だったと・・・」。

多少避難の開始が遅れていても、徒歩で避難していれば、少なくとも、健常者の犠牲者数は激減していたはずである。そして、若い人々は、全員が犠牲にならなくて済んだのではないか。

避難を拒む「老婆」の説得・・・・恐らく、クルマがある故に、説得に時間を掛けたのだと思う。しかし、これも、夫に協力していた妻が犠牲になった。クルマがないから「避難できない!」と考えさせるのも、日頃の「クルマ神話」であろう。一歩でも二歩でもあるけば、助ける神もいたはずであろう。息絶える最後まで生きることを諦めない・・・・満蒙をロスケに追われた人々の精神でもあったのだが・・・・戦争の被害や苦しさを語る人はいても、あるいは、そんな話に耳を傾ける人はいても、生きることを諦めなかった人々の行動・体験に耳を傾ける人はいない・・・・お涙頂戴の「語り部」の存在の虚しさでもある。
上空からの、クルマ渋滞の映像・・・・毎年、この日にTVに報道されるだろう・・・真摯に考えれば、多少の知恵は生れるだろう・・・・しかし、「他人より早く出発すれば・・・」の考えに至れば、歴史は繰り返すことになる。渋滞・・・犠牲者自らが犠牲者ではなく、加害者でもあったことに、最後まで考えは至らなかっただろう・・・私は思う。死者を悼んでも、考えるのは生き残った者の義務でなければならない・・・。勿論、そこに「ego」が優先すれば、それは、死者への冒涜になるはずである。