9月入学のこと・・・・

9月入学・・・・

随分以前に、西日本新聞・「こだま」の課題の「9月入学」に、私は、高校生の受験の条件を論じて掲載されたことがある・・・インフルエンザの猛威がニュースになっていた頃だったと思う。私は、「人生の中でも、最も大切な挑戦」をする高校生に、何故、この時期に入学試験を行うのか・・・9月入学にすれば、高校生も安心して受験勉強に励めるののではないか・・・と、論じた。この気持ちは、今も変わらない。私は進学していないので、超氷河期の就職戦線だったとは言え、年明けには、内定を貰っていて・・・例年だと11月頃・・・、天井のない、隙間風が、家の中を吹きまくる寒い冬も、炬燵の中で、背中を丸くして、楽しい読書に耽っていたことを思い出す・・・進学の準備に余念のない、中学時代の友人にはうらやましいものだったらしい。

今朝の、NHK・「ニュースの深読み」の、この話題を視聴して、「9月入学」の持つ意味が随分と違うことを考えさせられた・・・・。つまり・・・・「人材」集めの手法なのだと・・・つまり、一時ドイツが行った様に、自国の「人材ならぬ国民」を海外に出し、優秀な人材に限って、優先的に入国を認める、そして帰化を勧める・・・その政策に似たものであると、この討論を聞いた。海外の人材が欲しいのである。「内向き」の若者を相手にしない・・・と、断ずる方が手っとり早い・・・と、言うことだろう。

国家が滅びない為に、「国民」が必要なのか、「人材」が必要なのか・・・韓流・時代劇ドラマ・「テ・ジョヨン」では、高句麗を滅ぼすことになる、唐の「則天武后」が、契丹高句麗出自の武将を使うストーリーである。現在行われている「契丹展」以前の契丹である。当時の、武将達は、敵国の優秀な武将を自国の武将として、国家・民族の為に闘わせていたのである・・・そんな時代を想像すると解り易いか?

アメリカは、政治、科学、人文、文学、医学・・・全てに亘って、海外の人材を集め、そして、国家を維持・発展させていると言っても過言でもないだろう・・・そもそも「アメリカ人」とは、アメリカ国籍を有する、人工的な「人間」に過ぎないのだから・・・。
かつて、元気な頃のキッシンジャーの周りには、彼が何処にいても、何処の国でも、人垣・・・特に、将来を嘱望された人々の・・・が出来たと言う。ニクソン訪中のお膳立てをしたのも、キッシンジャー・チルドレン達だったし、パキスタン経由が可能だったのも、命を賭して働くパキスタン学生の功績だと、(確か)自身の回顧録に記していたと思う。キッシンジャーが、ニクソンの為に働いた様で、実は、アメリカの為であり、それが、彼の周りに集まる学生や若い研究者には、キッシンジャーへの忠誠以外のなにものでもなかったのだろう・・・と、私は思うが、「国籍」の軽さでもある。
戦争映画の中にも、米・独の相対する将軍が共にハーバードであったり、地方の州の大学の出身であったり、グローバルとは、そんなことなのだろうと、私は思う。軍人たちは、共にハーバード出身者としての自尊心から相手への尊敬を払うが、「国家」を忘れることはない・・・敗者は、国家に殉じる。殉じさせる「国家」が偉いのだろう。

もう、日本の季節感・・・桜と入学式・・・等を論じる時代ではなくなっていると、悟った。西欧が、何故、概ね9月入学となっているのか、私は寡聞にして知らない。しかし、緯度(北緯)にして、日本の北海道程のと事に位置する文化である。やはり、白夜に近い環境の中で、「4月」を入学期に選ぶのは好ましくなかったのだろう・・・と、推察するだけである。

世界地図を見る時、部屋に掲げる時、「大西洋」を中心にするのが、西欧の習慣である・・・何の不思議もない。我々日本人は、太平洋を中心にする・・・地図の半分以上が「海;太平洋」である。その、端っこに「円弧」として存在する「日本列島」が、この地図の中の「文明国;先進国;経済大国」等と、地図を見ながら満足する私がいる。これが、我々の「世界観」であると、考えても、それほど大きな違和感はないだろう。しかも、北から南まで、長い緯度を有する列島の季節感を、京都、あるいは東京を中心に感覚するという不思議なエトスも持っておるのである。
閑話休題・・・・横田めぐみさんが拉致された時・・・その時間は、その季節(冬ではなかったが、秋の深まるころだったと、思う)に、西日本、とりわけ九州ではまだ明るさが残っている。しかし、新潟では真っ暗だったはずである。真っ暗な道・・・夜道に近いものだろう・・・一人の少女がとぼとぼと下校の途上にある・・・古代文化の感覚で季節を捉えるから、何の不思議でもない・・・子供の行動を考える時、安全を考える時・・・・何故、「体感・季節」が配慮されないのか・・・私は不思議でならない。北海道と沖縄と、学校の「登下校或いは始業・終業」時間が異なっているのか、或いは一律なのか・・・誰か教えて欲しいと思う。

地中海から、北海まで、人間の季節感を、生活時間を「平均的」に考えられるのが「9月」と言う季節なのかもしれない。西欧の、「9月入学」の由来を、私は、その様に理解する・・・当分は・・・。

高校が従来通りの、4月入学・3月卒業・・・・そして・・・大学が、9月入学・7,8月卒業・・・この間に生じる「gap」が、この日の話題だった。これを体験している子供達の紹介では、それぞれに、ボランティアに、世界漫遊・日本漫遊・・・例えば民話の収集等・・・に、勿論、アルバイトもある・・・個々人の生活に、趣味に、あるいは、将来を掛けた事柄に応じた過し方をしていた。

「それが出来ない子はどうする・・・」;全て同じでなければ、それを「格差」として、あってはならないもとして論じる御仁も多いだろうが、私は、その様な御仁と論争する気持ちはない。一つだけ言っておけば・・・「人は、支え、支えられて、生きている・・・」とは、一人一人が自立している、独立していることである。人に支えられて、人を支えることは不可能・・・全てが、人を支える能力と精神を持っていて、それを矜持としていて、時に、一時的弱者を支えることが可能なのでる。五体満足な70、80歳の大人が、「友達がいない、誰とも話ができない・・・」と、愚痴三昧の日々、挙げくは、世を果敢なんで自殺をする・・・苦情を言って自死することもないだろう・・・と、思う。

そもそも年齢とは、人間だけが数えるものだろう。何故数えるか・・・人間自身が作った、社会(システム)の運用に必要だからである。数えなければ、次第に衰える己の姿があるだけである。毎日を、「今日の俺」と思っていれば、悲観することもあるまい。入学gapも同じ事・・・小学校から大学まで、同じにすれば、gapはない。しかし、小学校には、小学校の用、中学校には、中学校の用、高校には高校の用があるから、大学だけに、社会運用の責任が重くなれば、違った用が生れる・・・そこに生れるgapである。
そして、その社会で生きる覚悟ならば、そのgapを如何に埋めるかは、個々人の責任でなければなるまい。もう、奴隷として、奴婢として生きることの出来ない時代なのだから・・・。

卒業〜入学のgap・・・それが、自分で克服出来ないでは、進学する意味もないものだろう。新卒・一括採用も、そろそろ終焉を迎えるのではないか・・・またそのgapも、自分の才覚で埋めるべきであるし、埋められない様な人材を企業が求める筈がない・・・と、私は考える。