曽野綾子を読む・・・・2

「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個人的記録」から・・・
第2回
その5;;;;
「脱ダム宣言」なるものは、多分に戦後の日本経済の基礎を作って来た人々に対して忘恩的な、軽薄な発言だったと、私は感じている。
人生で、「あれか?¥、「これか?」と言う形の、歯切れのいい選択は殆どない。あれも、これも微妙に必要なのである。

日本の最高学府(京都大学)で学び、松下政経塾で学んでも、この程度のものか・・・と、八ッ場ダムの工事中止を得意満面の笑顔で宣言した前原誠司に、私は興ざめした。彼は、ピラミッドが何故に建造されなければならなかったのか・・・何の用にもならないのに。また、万里の長城が、あの地に造られなければならなかったのか・・・その後の改修・増強が続けられたのか・・・蛮族は、長城を超えることなく侵入し、政権(王朝)を倒す敵は、常に長城の内にいたのに・・・殆どイメージできない脳を持っているのだろう。所詮は「政策」の道具に過ぎない・・・ピラミッドが、戦争に大勝利し、得た捕虜の、あるいは拡大した領土の領民を宥める「仕事」を創出するために建設されたものであり、万里の長城が、北方の地に「人口」を創出するために・・・仕事を作って人を集める・・・必要だったことを・・・何故必要だったか・・・北辺を守る兵士の確保の為であることを・・・。
もちろん、平成の八ッ場ダムが、同じ理由ではない。この国の繁栄が、近代以前にも、大きく「治水」に依存している事に「忘恩」的な判断を下したのである。よしんば八ッ場ダムを不要というのなら、八ッ場ダム建設の経緯と、その決定に至るプロセスを、もう一度洗い流し・・・その中に、「中止」の論拠を求めなければならなかったはずである。
今、その軽率的な政策構想から徐々に脱しつつあるが、党内の、単線思考を是正するには、まだ時間を要するだろう。曽野綾子ほどの評論をした評論家を、私は知らない。
その6;;;;
今回初めて日本国内で生れたのが「難民」である。難民になると言うことは、まさに一切の保護から見捨てられて、自分の願わない土地に動かされることなのである。

少々言い過ぎかな・・・と、私も思う。全てが破戒され、流された津波の跡をみて、「死の街」と言った大臣は即刻首が飛んだ・・・・曽野綾子も、大臣だったら、この一言で、この著を発行禁止に追い込まれたかも知れない。3・11の夕暮れ、彼方此方の高台に、寒さに震える人々の姿は、さしずめ「難民」だった。当時を語る、子供達の作文にも十分に伺える。
今回「難民」の発生を、過去の歴史を軽視したことに求めることに理がないわけではない。しかし、昨今の津波に関する誤解を考えれば、避難の訓練の不備にあったのではなく、我々の、「津波に関する誤解」にあったことが歴然とする。高学歴の時代になっても、「学ぶ姿勢」、「学ぶ方法」に疎く、学ぶべき「真髄」を掴み得られなければ、それは只の念仏に過ぎない・・・ことを、今回に学んだのだと思う。1mの津波なら「安心」では、復興なった街で、再び避難民になる可能性は高い・・・避難は上手になっても・・・。
学ばずして住めば、「難民」になる・・・被災者でない我々も学んだことでなければならない。
その難民状況を救うのが、「仮設住宅」である。思う様に「土地」が得られずに行政が苦労した。幸い、色々な便宜に助けられて、多少の時間は要したが、ひとまず、落ち着くところに落ち着くまで、半年強を要したが、10月12日現在で、避難所暮らしが解消した様子・・・明日から、自分で飯をつくらなければ・・・と、愚痴気味に語る高齢者の姿が印象的だった・・・曽野綾子の最も嫌う台詞だろうと、思うから。
しかし、火事、地震、水害、土砂崩れ、そして今回の津波・・・「仮設住宅」の需要が消滅する暇はないだろう。なぜ、仮設住宅が「プレハブ」で準備されていないのか・・・今回、大型コンテナーで、3階建の仮設住宅が作られた・・・是非「プレハブ化」して、常備されるべきだろう。
その7;;;;
自動車という文明の利器とは・・・・津波の時は乗らないと言う原則を!

統計の数値を忘却したが、クルマを利用したが故の被災者の数は決して少なくはなかった。また、避難場所の近くに居ながら、自宅のクルマを求めて帰宅して、還らぬ人なった人も多いのではないか・・・ナレーションだった。納得!
特に、愚か(残酷ではあるが)だったのは、クルマがあったが故に、一旦自宅に戻ろうとして犠牲になった人々であろう。まさに、クルマが「神器」だったのであろう。
今回は、津波の警報が、その規模を伝える意味では、少々拙劣であったと想わせるものがある。殆どの子供が犠牲にならなかった小学校も、もし、もう少し津波の発生が遅く、下校し始めていたら・・・と、思うと、背筋は寒くなる。途中で、津波を聞いたら、学校に戻る様に訓練されていたのか、否か・・・今後の課題を含んでいるのかも知れない。
半藤一利の著に度々紹介される、彼の、東京大空襲にも、家族を探して犠牲になった人々の多いことが伺える。非常時に遭遇した時、親子であれ、夫婦であれ・・・一人は独りで・・・の精神を養っておかなければならないものであろう・・・しかし、それは、政府に要求されることではないのである。
中西 礼が、満蒙から引揚の途上で、ソ連戦闘機の銃撃に遭遇する。母親の側に寄ろうとする「息子の礼」を母親は突き飛ばしたと言う・・・お前が、私と一緒に死ぬ必要はない・・・と。
戦中・戦後の語り部も、悲惨さを語るのではなく・・・この様な知恵を語るべきなのである。それが、教育ということであり、子育てというものであろう。そして、危機の中の「美談」に酔わない習慣も必要ではないのか。
<今回はここまで・・・>