曽野綾子を読む・・・・5


「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個人的記録」から・・・
第5回
その14;;;;
飢えと寒さに苦しむ被災者に対して、なぜ日本政府は「空中投下」という手段で、即刻、寝具や水、食料を届けなかったのか、私は今でも分からない・・・私も分からない。
一方、なぜ被災者たちは、地震の直後、寒さや飢えに苦しむなら、被災地に散乱している木材の破片を盛大に燃やして、津波に遭わなかった家から食料を貰い、自分達で煮炊をしなかったのか・・・その内、私は理解するだろう。
日本政府も自衛隊も、あるいは「赤十字」も、海外救援に見られる、救援物資に群がり、吾先に争奪戦を演じる、日本人の様子を海外に見せたくない・・・そんな気持ちが働いたのだと、私は思う。じっと忍耐で耐える国民の様子に、あるいは「反省」したのかも知れないが、目の前に物資が落ちて来た時は・・・と、考えると、全員が冷静であったか、否か・・・判断は難しいものであろう。
結果的に、冷静な日本人の姿が、海外に印象付けられた・・・しかし、放射能汚染地区には、泥棒が後を絶たない様子が、今も続いているのである。余談だが、彼等の身体に全く異常が見られなかったら、今後も異常が発見されなかったら、平均寿命以上に長生きをしたら・・・この騒ぎは何だったのだろう・・・と。
政府の対応が遅い・・・との非難はかまびすしい。しかし、凄まじい、悲惨な状況にあっても、政府救援をじっと待つ被災者が、政府、行政の怠慢、行動の鈍さを生んでいたのではないか・・・避難所の寒さに震える人々の姿に思ったものだった。もし、瓦礫の山に「火」を放って「暖」を取っていたら、警察権力が介入したのだろうか。
確かにボランティアは沢山駆け付けた。しかし、現地を知るのは現地の人である。言わば「隣人」である。その隣人の「手」が伸びたのだろうか・・・・何事も悲劇として伝える事に使命感をアッピールしたいメディアが、視聴者に偏見を生んだのだろうか・・・曽野綾子氏のフレーズの中に、ニュアンスとして感じるものである。
津波に遭わなかった家から食料を貰い・・・のフレーズは、遠くのボランティア、義捐金はあっても、隣人の手が薄かったことを思わせるものがある・・・。あるいは、打ちひしがれた被災者の様子に、躊躇したのだろうか・・・今後の災害の為にも、虚心坦懐に、お互いが反省しておく必要はあるだろう。私も、その内、理解したいと思う。

救助の現場から営舎に戻る自衛隊に、「ごくろうさん・・・・」のmessageを、毎日送り続けた二人の少女の姿は、余り報道の映像にはの頃なかったが、私は、世界に誇る日本の子供の姿であると、思いたい。彼女等の表情に、「やらせ」の表情を、私は、その痕跡さえ発見できなかった・・・・。
その15;;;;
「災害時の寝具は毛布」という発想は全てやめて、寝袋と使い捨てカイロだけにすれば、人々は寒さに苦しまなくてすむ。
私も、全面的に賛成である。私世代の、山歩きの好きな青年は、「寝袋」が、必需品だった。山小屋があっても、寝具の準備は、九州の山では皆無だったと思う。国産の新品があったのか、否か・・・知らないが、私は、進駐軍払い下げの中古品を3,000円(手取り給料の10%)で手に入れた・・・北九州では、注文待ちだったと記憶する。アメリカ兵の身長に合わせたものだから、足の部分に余裕が大きい。暖房の無い無人の山小屋では、夕方に炊いた「はんごう」の飯を、そのまま、其処に入れて寝たものだった・・・朝は、暖かい飯が食えた。家庭を持って、山歩きを止めた頃、その寝袋で、朝鮮戦争の戦死者を運んだのだと聞いた・・・「そうだったのか!」と、思っただけだった。
家を建てたが、嫁さんがまだ・・・独り寝の冬には、寝袋を引っ張り出して寝ることもあった・・・勿論、座敷で、である。羽根布団に包まっている様なものだから、通気も言いし、保温も良い・・・毛布とは比較にならない快適な夜が得られたはずだと、私も思う。それに、使い捨てカイロがあれば、「鬼に金棒」だったろう。この辺りは恐らく、行政担当者の無知のなせるものだと思う。いわば、「世間知らず・・・」と、言うべきかもしらない。
その16・・・・
災害見舞いの「のし袋」・・・「お返しに心配なく。気軽にお使いください・・・」という言葉をつけておけば、誰でも受け取っていいような習慣ができればいいと思う。お金は、早く渡せば渡す程「力」を発揮する。
私達は、建前として「お金」を卑しいものとして見る習慣が消せない。その癖に、泣き落としの詐欺に引っ掛かる妙なエトスを持っている・・・おれおれ詐欺等は、その典型だろう。
「お金・貨幣」は、人間が生みだした最大にして最良の「文明」である。なによりも、「心の交換」を可能にするのであるが、これに躊躇する御仁が多いのが一つの不思議である。つまり、「人の心」を買うことも可能である・・・と、言う事実があるからかも知れない。
更に言えば、「お金」は貯蓄するもの・・・との意識が強く・・・その裏には、「無駄使い」への懸念が強い。被災者にお金を渡しても、有効に、大切に使ってくれるだろうか・・・余計な穿鑿なのだが、我が身から出た「錆」の様な感覚に左右されるのである。だから、ついつい・・・「役に立つものを・・・」の意識になり、役立たずの「ゴミ」にも似たものを、恩着せがましく与えて、自己満足に堕すのである。
災害用・見舞金、義捐金様の「のし袋」が、「のし袋」のコーナーに出現してもいいのではないか・・・あるいは、都会では出現しているのかもしれない・・・それなら、早く普及させるべきだろう。「お金」とは使って「力」を発揮するものであり、使ってもらって「人助け」になるものなのである。
「お金を大事にする・・・」とは、自らに「人助け」の機会が与えられることを期待する為のものでもあると、考えるべきだろう。
その17・・・・
お金は集めるよりも、配る方が難しい。目的が叶った相手に、安全に渡すことは至難の業である。集めた金を、地方自治体に渡すだけなら、誰にでも出来る・・・「丸投げ」・・・・「義捐金」と言う美名だけをかすめ取る行為である。
私も、10,000円を郵便局に差し出した・・・送金先が幾つかあった・・・何処にしますか?・・・との窓口の問い・・・「マー君が好きだから、宮城にしよう・・・」と、窓口の青年が手続きをしてくれた。何度かの義捐金郵送の経験の中にはなかった「快感」だった。この程度の金額で、使い道を云々する心算は毛頭ない。しかし、ニュースに、義捐金が金庫の中で眠っていることを聞くと、少々、政府も自治体も、そして、赤十字も怠慢ではないかと思う。
あの惨事である。多少の悪事に類することがあっても、彼自身が少なからず被害者なのだろうから、小さな用心で、大きな被害を助けられない現実をに対応すべきだと思う。アスリート達が、色々な義捐金活動をしている様子が垣間見える・・・目の前の困窮に、弱者救済に・・・効率を無視して使われるべきではないのか・・・寝袋と思いつかない行政担当者、塚捨てカイロを知らないが如くの行政担当者・・・救援物資の空中投下が出来なかった自衛隊・・・余りにも「杓子定規」・・・知恵がないことの証である。

「人間は、ハンマーを、紙が風で飛ばされない様に「重し(文珍)」として使う知恵を持っている。システムのプログラムを書く時に、SEの忘れてはならない、技術を超える常識である・・・」とは、ITの世界に飛び込んだ時に、最初に読んだ教科書にあったフレーズである・・・。私自身はプログラムを書いたことはないが、私が大事にしていた「金言」の一つだった。石部金吉・・・時に「馬鹿」の別名ではある・・・と、私は思う。
<今回はここまで・・・>