曽野綾子を読む・・・・4

第4回
その11;;;;
人生にはいつも、取り戻せないほどの大きな運命の変転がある。・・・・無残なことがないような社会を作るためには、いくらでも働き・・・「生活を元に戻してくれ・・・」等と、「世迷言」を言ってはならない。不幸もまた、一面では個人の「魂」の領域なのだから・・・たとえ国家にでも、それを売り渡してはならないのである。
私世代が知る最大のものが、敗戦(あるいは終戦)である。1931年生れの曽野綾子は、10歳。真珠湾奇襲を欣喜雀躍として喜んだかもしれない。5歳の私は、記憶に薄い・・・ただ、5歳の頃に、祖母の郷里や、父の郷里を訪れた記憶を父に正した時・・・日米開戦の行方次第では・・・と、思い、家族を一旦内地に避難させたのだと言う。必ずしも、当時の日本人が、自信満々、その結果に喜んでいたものでもなさそうである。
しかし、父親として、大きな運命の転換に、既にこの時に遭遇していたのである。父は、日本の更なる発展を思い、朝鮮窒素の一人の社員から、「組」・・・今日でいうゼネコン・・・への転職するために、「会計士」の資格を得るべく勉強を始めていたらしい・・・休日は、殆ど書斎から、食事以外は出てこなかった・・・しかし、成功への道は開かなかったのだろう。
人間万事塞翁が馬」・・・父から何度も聞かされたフレーズである。「世迷言」は、一切なかった。看守の道を選択したのも、唯一の就職のチャンスに一度で成功しただけのこと・・・学歴は、殆ど小学校卒、吃音、ど近眼、5尺足らずの、体重が終生50キロを超えなたっか小男・・・昭和21年だったからこそ、看守になれたのだろう・・・。
「世迷言」は、一見正義の主張に見えて、さにあらず・・・自らの卑しさを見せるものだとは思う。

その12;;;;
原発反対か・・・賛成か・・・
私は、それについて一切の発言せず、賢い指導的な同胞の選択に任せるつもりだった。その結果がどうなっても、私は少しも悔いない。私はもう充分、素晴らしい日本人たちの「知恵」の結果のお世話になってきた。
私も、この判断に立ちたいと思う。「脱原発」を、唯一人の友人とのメールの中で話題にしたとき・・・わたしは、「自動車が危ないと言って、人力車はないだろう・・・」と、論じた。
「スピード」は、人間が、その発祥以来求め続けたものであると、私は思うし、信じている。文明の全てが、科学の全てが、願望の全てが・・・「スピード」の一点に収れんすると考えている。そのスピードの原点にあるのが、「エネルギー」である。より大きなエネルギー、より安定して取得できるエネルギー、しかも、エネルギーは連続して消費されるものである。因みに、「電力」を、大量に、長期に保存することは、現段階の科学技術でしては殆ど不可能に近い。せいぜい「ダム」が、エネルギー保存の唯一の手段ではないのか・・・
曽野綾子氏は、電力は、民主主義の根底を支えるものであると説く。送電設備さえ整えば、何処でも、何時でも、誰にでも、平等に供給される・・・文字通り「ユビキタス」の世界なのである。「節電」・・・美しい言葉の様で、強いものの独占を促しかねない思想となる危険性は大きい。使いたい人が使えるだけの電気が供給されて、「電気」なのである。
炊飯、灯りのエネルギー・・・薪(炭)があり、石炭(コークス、豆炭ETC)があり、ローソク(植物、鯨を含む動物)があり、石油に辿りついた・・・その石油を精製することで、多様なエネルギーが生れ、地上に地下に、海に陸に、空に宇宙に・・・その恩恵を齎している・・・勿論、人間の頭脳の中から生れた「文明」である。
そして、そのエネルギーを求めて、人間は争ってきた。
今、化石燃料の枯渇が叫ばれる・・・しかし、叫びながら、そのエネルギーを浪費する戦争を止めることが出来ない「矛盾」に、人間は苦しんでいる。恐らく、人間は、その存在が続く限り、文明と戦争を、両手の掌に乗せて、脳のなかで、エネルギー確保の策略を巡らすのだろう。「核」も、その例外ではない。
その意味で、原始爆弾という「核戦争」の洗礼を、全ての資源に乏しい日本人が受けたことは、あるいは奇蹟といえるのかも知れない。何故なら、その頭脳のレベルから言って、「核戦争」の仲間入りも不可能ではなかった日本である。この国が、「核」の平和利用・・・つまり「原発」にのみ「舵」を合わせている意味は大きい。曽野綾子氏の言う、素晴らしい、日本人の「知恵」なのである。
数世紀以降、世界は必ず、化石燃料を求めて熾烈な争い・・・つまり戦争・・・を、求めるだろう。核・資源も枯渇の危険はある。しかし、まだまだ、技術的な利用の工夫は可能であろう。「可能性」に門を閉じてはならないのである。あるいは、「可能性」を秘めた門の前(人類にだけ入る資格のある)で、佇んでいてはならないのである・・・
「一粒の麦死なば・・・」の精神・覚悟が、ここでも要求されているのではないのか・・・と、私は思う。
その13;;;;
エピクトス(1900年前)・・・「奴隷エピクトスとして俺は生れ、身はチンバ、貧しさはイロス(乞食)の如くなるも、神々は友なりき」・・・彼の墓名碑
・・・もし君が一人間を人間として考え、なにか全体の部分として考えるならば、その全体のために病気をしたり、航海をして危険を冒したり、窮乏したり、また時にあっては寿命前に死んだりすることも、君には相応しいわけだ。つまり人間は、あらゆる運命に遭遇することも納得していなければならない・・・・
私は仏教徒である。しかし、この言葉を、理解(傲慢と言われても・・・)することは可能である。つまり、仏教が身分を問わない宗教だから・・・・。
私は、「空」の存在なのである。どんな死に方でも私には相応しいのであろう。苦しみたくない・・・その気持ちはある。しかし、その苦しみは、「生きよう、生きたい・・・」と言う私の存在があるからである。「無心」に生きて、「無心」に死んでいく・・・病気も、窮乏も、また冒険も、危険も、窮乏も、贅沢な欲望の苦しみも・・・私の存在が、あるはあり様が生んでいるものであり・・・私そのものではない。
私の「あり様」で生れる「苦」を誰の所為にするのか・・・仏は友である。菩薩は、その仏への道案内をしてくれる先達である。私があるから、地震がある、津波がある・・・そして新幹線があり、原発がある・・・全体の中にあって、その全体を非難し嫌悪するのは、傲慢であろう。自らを「神」のし、「仏」にするなら、勝手に苦しむ以外には生きようはない。「苦しむがいい・・・」と、問われれば、答えるだけ・・・それだけである。
<今回はここまで・・・>