曽野綾子を読む・・・・6

「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個人的記録」から・・・
第6回
その18;;;;
「安心して暮らせる生活」というものは、水と空気と電気の安定した供給を条件に、ある程度可能なものだった。日本人は、ここ十数年、(その欠落を)全く体験したことがなく、そのもの自体を想像して備えると言う気もなかった。
曽野綾子の自戒でもあるのだろうと、読んだ。空気はともかく、水は、探すことが可能である・・・井戸であれ流れであれ・・・しょっぱかったり、厳密には身体に良くない水があっても、当面の命を支えるには、何とかなる・・・尿も、また水の役割を果たしてくれるもの・・・舟の遭難や、満蒙を彷徨った人々の手記、あるいは、負け戦の逃亡の中の兵士の手記に読む事もある・・・・。
引揚後の生活の中で、水は、誰もが見捨てていた「井戸」で救われ、電気は「盗電」が容易だった・・・朝鮮窒素で、父の職場が「電灯係」・・・all電化の生活の中で、電気はほぼ使い放題だった・・・皮肉ではあった。後に、不正がばれて、小さなヒューズを付けた「定額料金」が課せられる様になった。集金日に、ヒューズの点検があるので、終日前に、銅線の様なヒューズから、所定のヒューズに交換して置くのが、私の大事な使命になった。10年間、一度も失敗しなかった・・・悪事とは、几帳面さが「命」なのだと、今も思う。「盗水」だったら、こう旨くはいかないだろう。その意味でも、「電気」とは、民主主義であり、貧しいものを助けてくれる。
原発」に反対するなら、「原発」を必要としない「生活」への思考・指向がなければなるまい。例えば、エネルギーが何であれ「自家発電」を可能にしておく事である。あるいは、巨大な蓄電池を準備することだろう。勿論、太陽光・風力を備えることを考えるのも良い。しかし、将来は兎も角、今はまだ、我々は密集して生活していることを忘れてはならないだろう。自家発電の為の地下室・・・振動を完全に遮断した・・・太陽光パネルの反射が、隣人の迷惑にならないこと、風力の騒音は、地下室の発電装置に似たものがある・・・鈍感な己と、敏感な隣人との関係で、紛争が惹起してはならない・・・「節電」・・・何でも許される「大義名分」ではないことを忘れてはならないと、思う。「想像して備える・・・気持ち」が無い所に生きてきた自分が、「俄か想像」で、安易な行動を起こしてはならない・・・御注意を!
その19;;;;
電気がなくなると、法規というものを完全に守ることが不可能になるから、あらゆる社会に「超法規」が出現せざるを得ない。
超法規の行使を暴走せずに支えるのは、哲学であり、思想であり、想像力である。それらは、一朝一夕に人間の才能に備わるものではない。
電気の大事さについては・・・今更強調する必要はないと思うが、しかし、余りにも当然すぎる隘路がある。電気のない生活が、我々には想像できない状況の中に、我々は生きているのである。「交通信号」・・・節電の中で多少は経験した。しかし、この状態が永久に続くとしたら、人々の心は、もっと荒んでいただろうし、節操もなくしていただろう。数日間は、クルマなしで我慢した人も、何時果てるともなく続く停電だったら、吾先に、当面に必要なものの取得にクルマを走らせたであろうし、スーパーやコンビニに「物」がある間は、クルマのラッシュが続き、交差点では、クルマの衝突が続いたのではないだろうか。喧嘩・紛争の仲裁も、超法規的になっていたのではないだろうか・・・暴力団、ヤクザの役割が、明らかになっていたであろう。昨今の「暴追」の雰囲気は吹っ飛んでいたであろう。つまり、彼等・・・暴力団、ヤクザ・・・の哲学が世界を支配し、その思想に、市民が協賛し、市民は想像力を失って、当面の、その場凌ぎに躍起になっていたであろう。
これを抑え込む「哲学・思想・想像力」が市民の側にあるか、否か・・・私には希望はない。
その20・・・・
停電がもたらす最大の社会的変化は、民主主義もまた一時的に停止するということである。民主主義は、安定した上質の電気が、国の隅々にまで供給されている社会でしか機能しない。
電気がなければ、立候補者の政治的な意図も公平に伝わらなければ、得票数の素早い集計も出来ないのあり、実に、民主主義の基本の第一は電気なのである。そして、電気は、日本の指揮系統の動く事を以って最優先とし、平等だの公平だのは、少々後廻しにしても良いものなのである。列島全体が、一斉に、瞬時に停電した時、最優先で「通電」されるべきは「総理官邸」なのである・・・実際には、非常電源が準備されているだろうが・・・。
筆者は、「電気」に関する思い入れが強い。巡礼で、各地の貧困国、あるいは、村や街を訪れるからだろう。そしてそこでは、電気が無い為に、教育を授けられない子供達が大勢いて、電気があれば助けられる命が、日々、時々刻々と失われていく状況を目の前にしているからだろう。
日本の様に、教育が溢れ、寧ろ、悪質な教育は排除したくなるような国に生活したのでは、見当もつかない状況なのだろう・・・彼女の文章を読む時に、耳を傾ける時に、我々が、外してはならない論点であろうと、思う。
選挙の度に、外国から「監視員」の派遣を養成し、集計に、外国のボランティアの手助けを頼まなければならない国々は、まだ沢山ある。独裁政権下で、命の危険を冒して投票された「一票」を守る・・・
その21・・・・
私は、日本の教育にいささかの不満を述べておきたい。「規則」、「安全基準」、「定員」等というものは、一応の目安であって、非常事態にあっては、さっさと無視してかまわないものだという教育が日本にはなかったのである。日本の都市の中でゴミを捨てることと、シナイ砂漠で、オレンジの皮一個を捨てることとは、全く意味が違うことを理解しないのである。
ある科学者が、「想定外」という言葉を使い過ぎることの懸念をTVで喋っていた。何があっても、「想定外」で、その責任を免除されることでもあると・・・その責任とは、「考える」責任である。
ここで、曽野綾子氏が述べている「教育」を学校教育に限るなら、少々的外れになるのかもしれない。学校教育であると言うなら、それは、「考える」ことを教えない教育である、という意味であろう。「考える」能力は、その前提に「知識」を身につける行動が伴う・・・つまり、自己研鑽。「知識」を身につけるとは、一つの知識を身につける時、その周辺の知識をも含み込む必要がある。「知識」は、単独の、孤立した知識では、「知識」にはならない。
この連載の始めの部分で、クルマで避難していた一家が、一人の老婆を助ける為に、定員をきにして、主婦が下車して、老婆を乗せて、避難所に運んだ。そして、クルマを降りた主婦は、津波の犠牲になった。
先日の大臣の失言・・・「そんな馬鹿もいる・・・」の部類に入るものなのかも知れない。また、津波に追われながら、「信号停止」していたクルマもあったとか・・・伝え聞く。「そんな馬鹿・・・」が、結構な数いたのかも知れないのである。よしんば、津波が「想定外」でも、その時に「遵法」の精神で行動することが、如何に馬鹿げているか・・・教師を「聖職」と呼ぶ、今日的教育では、払拭できない隘路なのかも知れない。
美しい「人間記録」も大事だが、この様な「馬鹿げた行動」の末に命を失った事例も、きちんと遺しておきたいものである。
余談になるが・・・原発建て屋が「水素爆発」で崩壊・・・放射性物質が散乱した・・・原因は、原子炉の内の溶融にあるが、発生した水素がベントされていたら、或いは「水素爆発」は免れていたかもしれない・・・のではないか。
何故ベントがなされなかったか・・・何故「弁」が閉じられたか。「放射性物質」の除去装置が装備されていなかったからだと聞く・・・何故装備されなかったのか・・・それを装備しようとすると、風評的に「原発の安全性」が、大きく損なわれ、地元住民の恐怖が増し、メディアが異常に騒ぐだろう・・・との危惧からだったと、一時伝えられた。除去装置が装備されて。その上でベントされても、放射性物質を完全には防ぎ得ないであろうが、その影響の大きさには可なりの差があったのではないか・・・。「知る」ことと、「理解する」ことの連繋・・・我々は、「知識」への対応を誤ると、自らに危険を呼び込むこともあるのだと・・・私は、この話を聞いた時に、思ったものである。

追記・・・・21日・BSフジープライムニュースから・・・
  喜びを感じる様になったら、ボランティアから手を引くべきだ。ボランティアとは、自分の喜びの為にするのではない。強いていえば、「神が喜んでくださる・・・それを喜びとすべきもの・・・」。私は仏教徒だから、さしずめ、「釈迦が喜んでくれる」ことを、喜びとすべきなのであろう。

<今回はここまで・・・>