TPP農業を考える・・・・


TPP・・・農業は、またも、戦後の「黄金時代」の到来を待っているのか・・・あるいは、農地を切り売りして銀座の高級クラブで、毎晩美女と過した時代の復活でも狙っているのか・・・それが、日本人の「食」を守っていると自負する、根拠なのか・・・・

戦後の農業基本法が制定された時、河野一郎が、烈火の如くに怒ったという話がある・・・つまり、農業を真面目にやる農業者ばかりが存在するということを前提にしているからだと言われる・・・圃場整備を「税金」で行う、それを宅地に転売・・・土地成金が生れた。かつて父が土下座して食料を乞うた「庭」には、マンションが立っているのではないか・・・その辺りで、百姓を続ける方と、カウンターでグラスを傾けながら、当時を回顧したものである。彼自身が、このままでは、農業は小さくなるばかりだと・・・その危惧は、今も生きているのではないか。

「農協の旗」が、世界の観光地を席巻したのは何時だったのか・・・高度経済成長時代到来の前哨としての、「金の卵」の時代の記憶が薄れ始めていたころではなかったのではないか・・・記憶力が弱いので、明確には言い切れないが・・・・。その後に、農村の「嫁」が、「花作り・・・」で、農業に活力を与えた・・・それでも、農村は「嫁不足」を解消するには至らなかったが、その元凶は、高齢農業者が土地にしがみつき、若い世代に「農業経営」の実験を与えなかったためではないのか・・・最近のTVに観る、若き農業者の表情、そしてその実績を観察するに、「農業」も変わるだろうとの期待は生れる。しかし、農業が国政の問題として浮上する度に、怒号を発するその表情には、TVに観る表情とは、違った落胆を感じざるを得ない。

またメディアが悪戯に「食料自給率」を煽りたてる・・・我が老夫婦の食卓の自給率は、私の目算では、エネルギー感残で、80%もあるだろうか・・・・最も、自給率を引き下げているのが、自家製パンの為の小麦粉であるような気がする・・・が、これは、パンと言う食べ物の風土的な文明の為せるもので、パンを食するかぎりいたしかたないな・・・とも、思う。しかし、戦後は、畑で収穫した「小麦」を、「石臼」で引いて、その粉で、当時の「簡易パン焼き機」や、中央に穴のあるパン焼き鍋でパンに焼いて食していた。また、後年、友人から「はったい粉」として馳走になった、市販の「はったい粉」には大きく失望した。自分の畑で収穫した小麦で作った・・・小麦を炒って、石臼で挽いた・・・「はったい粉」とは、全く違ったものだった。
まず、自家製小麦の「はったい粉」は、お湯を注げば、大きく膨れ上がったものである。大匙に一杯の粉で、大きな茶わんに盛り上がる程の「はったい粉」が錬りあがったものである。

米の美味しさ、薩摩芋の美味しさ、南瓜の美味しさ・・・何れも、自分の手で栽培した苦労を知っているので、その美味しさに舌を撒く今日この頃である。薩摩芋にしても、かつては、大振りな芋は「たいわん」と呼ばれて、豚の飼料と考えられていた・・・我家では、それでも食していたが・・・熊本の八代の父の知人から頂いた「薩摩芋」も、痩松しか育たない、痩せた酸性の、赤土の開墾地では、表面が大きく割れた、白っぽい芋にしかならなかった。笹を腐らせて鋤込み、痩山の腐養土を集めて混ぜ込み・・・2年も掛かったと思う。家庭菜園の野菜・芋を頂くが、本当に美味しい・・・これで、日本の農業が、何故世界に通じないのか・・・不思議である。セールスが悪いのか、マネージメントが不足しているのか・・・・究極的には、闘う意志がないのだろうし、知恵を出すエネルギーが枯渇しているのだろう。
若い農業者がいない。集まらない・・・古い組織を温存して、その世界に、若い力を封じ込めて、自らの支配の下に置こうとするから、若者が愛想を突かしているのではないか・・・元気な農業には、若い人の元気な表情がある。いま、やっと「考える農業」が、芽生え始めているのではないか・・・私は、希望を持っている。

幕末〜明治・・・長州が苦境にあったのは、余りの誇りの高さが原因であるとも、言うが、経済的には、「木綿」が、輸入・木綿に太刀打ち出来なくて苦しんだのである。その点で、「絹」は時流に乗り、その後の日本経済を支える翁力になった・・・。
何故、木綿が駄目だったのか・・・・それは、木綿の背後にあった、列島の気候と、その文化にあった。そして、それが世界に受け入れられなかったし、日本人が、輸入・木綿の良さに靡いたからである。つまり、原料・木綿の繊維の太さにあった。輸入木綿の殆どがインドさんだったのだが、それは、気候的に暑く、高湿度の環境を涼しく過す為の衣料でもあったのである。片や日本の木綿は、「防寒」を、その目的とするものであった。
日本よりも緯度の高い西欧では、防寒のファッションは確立した文明であった。そこに、日本の「防寒文化」である木綿の入り込む余地はなかったのである。かくして、日本の木綿は、インド更紗に敵ではなかったのである。

昨今、TPPの議論を聞いていると、この「愚」を繰り返そうとしているのか・・・と、情けない。しかし、ユニクロが世界に進出している。もう「原料」の段階で、勝負する時代ではないのである。日本の農産物を世界で、伍して行く商品とするのは、何が必要か・・・もう、赤ら顔の百姓根性で太刀打ちできる世界ではないのである。
外交では、恐らく米も大規模生産のコスト安で、日本の米の美味しさと勝負するのだろう・・・ならば、季節を問わず、美味しい米を提供する「米・文化」を、日本は世界に提供すれば良いではないか・・・今、新米の季節・・・先日、NHK・俳句の時間に、選者が、新米と旧米の、炊きあがりの香りの違いを強調していた。
米の美味さを、「香り」として、世界にアピールする・・・新しい文化を世界に触発することも必要だろう・・・その上で、常に、ユビキタス的に「新米」を提供する「米作り」の技術もあるのではないか・・・外国の農産品が入ってきて、国内の農業が駆逐される・・・短兵急に結論を出すべきではないだろう。山道に掛かっているのに、平地を歩く気持ちと方法では、脱落するのは必至である。傲慢、怠慢は、滅びの条件でしかない・・・

更に言えば、広さが望みなら、国外に、その広さを求めれば良い・・・日本の小さな田畑は、自然に、自然に戻るだろう・・・わたしは、大規模、広さは・・・武器としては拙劣なものであろうと思う。良いものを安く。貧しい国には、その国が負担できる価格で食料を提供する・・・・食料・戦術もまた、国家戦略としてあってよいものだろうと思う。
先日の、曽野綾子氏のBS・プライムニュースの中の発言にあってが・・・・国民の数より多い「牛」がいて、子供に与える「ミルク」が無いのだと言う・・・何故か、そこまで話がはずまなかった・・・原因は、余りな政治の粗末さ・・・が、そんな場所で、政治体制に関わらず、子供の命を救うに特化した、畜産・そして農業の在り方を追求するのも、日本農業の役割ではないのか・・・・この様な、国家的プロジェクトが活発に活動していえれば、少々の名目的な「自給率」の低下等、問題にするに値しないだろう・・・と、私は考える。