曽野綾子を読む・・・・10

子―10

「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個人的記録」から・・・
第10回
その31;;;;
どうしても子供を野球選手やサッカー選手にしたいので、戸外運動が必要というのなら、一家が犠牲になって、子供の為に放射能の危険圏外に疎開するほかはない。戸外で運動をしなければ学校ではないという観念は、むしろ身勝手だろう。大人が背負う運命なら、子供も同じ様に背負えばよい。
子供は小さな大人だ。根本的に耐える力を与えられている。少なくとも、大人と共に、苦しみに耐えた子供時代を(私は)光栄だと思っている。
野球やサッカーが出来る年齢であれば、曽野綾子の常識では、殆ど大人と判別するだろう。何故なら、満蒙を、ソ連軍に追われ、中国人に襲撃されて、彷徨った家族の支えになった年頃なのである・・・角田房子の「墓標なき八万人の死者」に詳しい。私自身も、10歳で、北朝鮮興南から、帆掛け・手漕ぎのメンタイ舟で脱出したが、親も、周りの大人達も、子供扱いはしなかった・・・唯一、釜山からの引揚客船が、釜山港を出たことも知らないままに、船首・小屋で遊んでいて、May・stormで荒れる海の波が甲板を洗い、客室に戻れなくなり、船員に助けられた時に、子供として、父の鉄拳を数発喰らったことだけである。
日本人として子供を育てたかったら、「内地」に還る方法しかないのである・・・北朝鮮で生れた私が、日本人として大人になるには、内地である日本に“疎開”しなければならなかった・・・と、言うことも出来る。もし、子舟で日本海を南下している時に、釜山港・港外のMay・stormに遭遇していたら、間違いなく鱶の餌になっていたであろう。親が背負う運命を、私も背負っていたのである。
「子供は小さな大人だ・・・」とは、林達夫昭和11年頃の評論に詳しい。子供は、決して純真な人間ではないのである。大事に、丁寧に育てられたからと言って、立派な人間になるものでもない。むしろ、親と大人と共に、苦しみに耐えた自信が、その後の人生に貢献するのだと、私は思うし、曽野綾子も行っているのである。
親から優しく抱いて貰う・・・ソ連先頭の機銃掃射に遭遇した“中西 礼”の母親は、不安に怯えて、母親に近づく“礼”と突き飛ばしたと・・・その自伝に描く・・・私と一緒に死んでどうするのか・・・!・・・と。
戦争の語り部も、こんな話を語るべきなのだろう・・・・戦争は、人を育てる装置でもあるのだから・・・。
その32;;;;
今回遺体の帰らなかった人々は、永遠に変わらない三陸の海を“植村さん”の様に「墓標」にした・・・と、私は思いたい。
当時私は、誰にも言わなかったけれど、メガフロートの役目の一つを、こうした災害時に、臨時の火葬場を設置する場所だと考えていた。人は、最悪のことを、考える限度まで考えておくべきだ。その用意を政府は国民に冷静な事実として知らせておいてもいいはずなのである。
私も、曽野綾子氏と同じ様なことを考えていた。一度「土葬」にして、また掘り返す・・・遺族にとっては残酷なことではないのだろうか・・・もっとも、今回は「メガフロート」の手配が遅かった・・・後知恵・・・のだが、今後のこととして、考えるべきだろう。
話題が変わるが・・・仮設住宅の作り置き、あるいは、設置場所を予め指定・・・定期的に見直す、状況の変化で、柔軟に、場所変更などの対応をする・・・住民も覚悟して日常生活をすることも出来るだろう・・・経済的に余裕がある人は、個人的に準備させても良いのではないか・・。火葬場なども、今回の経験を生かすべきだと、私は思う。
また、地球気候の変化を考えれば・・・・危険な谷筋に住めば、それだけの覚悟・準備が必要になる・・・これも、科学的な無知・・・避けられない無知・・・は、自己責任で受け入れるべきだという意識の改良もなければならない。天井川の川沿いに、住む人々も同様であろう。自然は、気候の変動、気象の変化を、何のてらいもなく受け入れる・・・犠牲になるのは「人間と生き物」である。それでも、利口な小動物は、概ね逃げ出す・・・未開の時代は、人間も、素直に小動物に倣っていたのだろうが、文明が人間を傲慢にしてきた。我々は、傲慢になっているのだと、ここで、認識しておくべきだろう。
そして、防災とは・・・このままだと、「こんな危険が考えられる・・・」と、大衆に周知しておくべきだろう。命を拾えば、次には「庶民」に変身できるのだろうから・・・。
その33;;;;
人間は神ではない。正確な現状を逐一客観的に判断出来る能力など、混乱の中では誰にもない。
人間は、原発の「炉心」を覗くことも出来ないのだ・・・東京電力・政府が、事実+民意の動向等と言う、凡そ計測不可能な要素まで考慮し上で公表に踏み切る。
その間の、苦衷を予測出来ない人物は、本当にマスコミ人として不適格なのだと、思う。

しかり。曽野綾子を読んで、嬉しいのは、この様なすっきりとした文言に出会うときである。特に、フリージャーナリストの不埒なマナー、質問、応答には、TVに聞いていて、本当に腹が立つ・・・顔がみたいのだが、カメラが、質問される側に向いているので、視聴者にとっては、全く「匿名」である。加えて、フリーとは、エチケットを欠いた風体が何故許されるのか・・・街頭でのぶら下がりならまだしも、準備された記者会見室のなかで、ホームレスの公園から駆け付けたの如き風体・・・その風体が、不適格な質問をさせるのだと思う。

当人は、「襤褸を着てても心は錦」のつもりなのだろうが、私には、「襤褸を着てれば、心も卑しい」としか思えない。しかし、せめて、人間の苦衷が、少しでも理解できる人間への変身を心がけて欲しいものである。新聞、TVがつまらなくなる・・・から。
<今回はここまで・・・>