曽野綾子を読む・・・・11

「揺れる大地に立ってー東日本大震災の個人的記録」から・・・
第11回
その34;;;;
この災害に責任はない・・・と、言いきれる人はいない。どうしようもない運命の流れの部分と、過去の体験を有効な数字として残し切れない人間の能力の限界と、社会に蔓延している「これだけ要るのだ」、「多分大丈夫だろう」という、根拠のない決断が、今回の事故を生んだのである。だから、震災前の繁栄を体験した人間の中で、一人も、自分はこの災害に責任はない・・・と、言い切れる人はいないであろう。
相手が、「絶対安全」を迫り、「絶対安全と言うことはありません」等と言っても、決して理解を求められない時は、ある程度以上の危険は考慮も予測も討論出来ないことになる。
震災前の日常が、「運命」的なものであったことを、其処にいれば、私も忘れている。さればとて、「運命的」であるから、私に責任なしとはしないだろう・・・曽野綾子の理念だと、私は理解する。何歳になっても、大人になりきれない“子供”・・・曽野綾子が別の所で論じていて、私などは、慙愧の思いで読まされたが・・・それを与えられた「運命」として受け止め、其処から己を出発させる気概を持ちえない人間の、特に高齢者の不甲斐なさに、切歯扼腕しているのである。
「絶対安全」と言って貰わなければ生きていけない・・・そもそも生きる資格がない、もっと言えば、「役立たず」、あるいは「パラサイト」なのだ・・・そして、そんな人物の存在が、周辺の人々の生命・・・貴重な・・・を危うくしていると認識すべきであろう。「絶対安全」を迫る人に、「絶対安全等は存在しない・・・」と言っても、満足するはずがない、納得するはずがない・・・理解を求めるのは、「草臥れ儲け・・・」だけのことである。そんな人物が長生きできる・・・人間の社会の優しさである。しかし、その人物の「脳」の中は空っぽであると判断すべきで、相手をするのは時間の無駄だと任ずるべきだろう。
こんな人物が、得てして「対話」を求めてくるものなのだが・・・殆ど「愚痴と意味不明の不満」を聞かされるだけで終わるのである。
その35;;;
嘘をつかせる人、嘘をつく人・・・・
原発に事故は起きない・・・と言ったのは行政であり、東電でもあったろう。もし、「事故は起きるかも知れません。ですから、あらゆる形での事故を想定して・・・人事を尽くして・人智を尽くして・・・安全を、修復の方法を考え、避難訓練を行います。」・・・等と言ったら原発は決して出来ないだろう。
「事故が起きるかも知れない・・・と言う程度の甘い想定で原発を作るのか・・・」と詰め寄られるから、「原発は絶対に大丈夫です・・・」と言う話になる。この段階で「嘘」があったと言うことだ・・・。「嘘をつかせる人と、嘘をつく人がいたと言うことだ。
今回の事故で、日本人は決して使ってはならない言葉を「二つ」知ったはずである。
*ひとつは・・・「絶対に・・・」。絶対と言うことはない、そんなことにも、この世では例外が起き得る。絶対に起きない「事故」もなく、絶対に心変わりしない「愛」もない。だから、断定した保障ほど恐ろしいことはない。
*もう一つは・・・「安心して暮らせる・・・」と言う甘えである。どんな人も、この世に「安心」して暮らせる世界はないと言うことが分かったはずなのだが・・・「安心して暮らせる様にして欲しい・・・」等と要求する。この現世の真理の分からない「年寄り」がいる・・・こういう人は、今まで、何をして「年・歳」を重ねて来たのかと思う。
耳が痛い・・・20歳代は、熱間圧延現場の“シフトマネージャー”だった、現場の配下のライン・ワーカーは、約80名・・・事故、人的災害は、マネージャーの責任である。言訳は許されない・・・大企業だから、責任を問われて馘首されることはないが、詳細な報告を求められる。事故の大きさでは、労働基準監督著の尋問もあり、時に「過失」を責められる。
毎日・常時現場に張り付いていることは不可能。また、現場のワーカーの手を取り足を取り指導する能力はない。しかし、ワーカーが怪我をする時、あるいは死亡災害に綱が様な事故に遭遇する時・・・必ず其処に、設備的システム的瑕疵が認められるものである。
人の行動・判断は、その環境がある程度までの変化なら、即応して行けるものである。しかし、ある限度・範囲を超えると、即応が難しくなり、「災害」に繋がる・・・毎日、設備休止中は、その詳細を点検できる・・・点検を要請することも出来る・・・しかし、それで「安全」とは言えないものである。設備が動き、その設備の中でワーカーが作業する・・・環境を変化させているのである・・・その時、瑕疵が発見出来なければ、早晩、事故は惹起する。
我々の生きる「娑婆」も同じはずである。地震が問題なのではない。それを想定して生きていないことが、生活していない事が問題なのである。安全に「絶対」を求める・・・しかし、己が不変で無い限り、その絶対は持続はしない・・・「津波」が襲うことも、歴史の中には何度もあった・・・その記録も現存する。先人の警告も目視できる・・・しかし、それを無視した時・・・既に、被災の環境に住していることになるのである。
「安心して暮らせる様に・・・」と、他者に願うのではなく・・・自らの学びの中に、その知恵を求めるべきなのである。それが、高齢者の「年輪」と言うものだろう・・・私も「他山の石」として、己に言い聞かせたいと思う。
その36;;;;
知らず識らずに感染している「安心病」・・・・
電気も水道も止まらない生活が何時までも出来るのだろうか・・・私の健康は何時まで保つのだろうか・・・と、私は絶えず現状を信じずに暮らして来た。安心して暮らせる生活などというものを、「人生」を知っている大の大人が言うものではない。
安心して暮らせる生活を約束する人・・・・嘘つきか、詐欺師であり、
安心して暮らせる生活を求める人・・・・・もの知らずか、幼児性の持ち主である。
言い得て然り・・・私の家は、海抜数十メートルに位置している。故に、洪水には、一先ず安心できるが、土地の崩落と、20〜30メートルを超す津波には対応できないだろう・・・これは、諦めている。「安心して暮らせる・・・」のも、その範囲のことである。その前に、西側からの強風に倒壊する恐れ無しとはしない。故に、庭に、高い大木は植えていない・・・僅かな、私の知恵である。

「酒」は、かなり飲んだし、その雰囲気は好きだった。酒に強い家系でないので、飲みだしたのは、大人としての人間付き合いが必要・・・と認識した30歳から60歳の定年まで、特に単身赴任の期間は、職場も、私の部下も、全員が30以下の若者だっただけに、相当な酒量になっていたはずだが、「痔」を除けば、大きく体調を崩すことはなかった・・・定年後は、働けば酒との縁は切れないと判断・・・完全な年金生活・・・一切の冗費を使わない生活で、15年を経過して今がある・・・ブログが、私の癒しではある。
「暮らしの安心」・・・・限定的ならば、それ程難しいものではない・・・しかし、パーフェクトは存在しない・・・それだけの判断である。曽野綾子氏の様には、自ら危険に身を晒さないから、彼女の様なスリリングな生活は味わえない・・・しかし、羨ましい・・・の感情の中で、綴られた文章を楽しませて頂く・・・その幸せはある。
<今回はここまで・・・>